『バットマン vs スーパーマン ジャスティスの誕生』レビュー(ネタバレあり)

ザック・スナイダー監督作『バットマン vs スーパーマン ジャスティスの誕生』のレビューです。DCコミックスの実写映画シリーズ「DCエクステンディッド・ユニバース」の2作目にして、ついにバットマンとスーパーマンが衝突することになる話題作。本当に「神は死んだ」のか?ニーチェの超人思想から読み取ってみます。

Batman

『バットマン vs スーパーマン ジャスティスの誕生』

全米公開2016年3月25日/日本公開2016年3月25日/152分

監督:ザック・スナイダー

脚本:クリス・テリオ、デヴィッド・S・ゴイヤー

出演:ベン・アフレック、ヘンリー・カヴィル、エイミー・アダムス、ジェシー・アイゼンバーグ、ダイアン・レイン、ローレンス・フィッシュバーン、ジェレミー・アイアンズ、ホリー・ハンター、ガル・ガドット、他

レビュー

(まずはネタバレなし)

もし映画の価値が、その物語全体のロジカルな整合性に求められるとするのなら『バットマン vs スーパーマン ジャスティスの誕生』は決して褒められた映画ではないのかもしれない。登場人物の心の揺らめきを夢のなかの映像として描こうとするのはあまりに安易だし、脚本上でも破綻している部分が散見できる。そして何より「映画」という枠組みはひとつの作品内で完結すべきという考えに基づけば、本作ではあまりに多くのプロットでサブテキストの参照を必要とするため、「バットマンとスーパーマンが戦うらしい」程度の浅い認識では、おそらく世界観全体を俯瞰することが難しいだろう。

それでも本作には「映画」としてではなく「物語」として非常に強い主張と魅力が備わっていた。少なくともマーベルを主とする最近のスーパーヒーロー作品群とは一線を画す、物語の意味の強さが特出した作品だと言える。

本作のオープニング、森のなかを少年ブルース・ウェインが駆けている。自分の目の前で射殺された両親の葬儀の最中、何かから追われているのか、それとも追いかけているのか、ブルース少年は森のなかに逃げ込み、そして突然地下に落ちてしまうと、そこでコウモリの群れと出会い、神秘的な現象を体験する。地下から飛ぶ立つコウモリによってブルース少年自身も、まるで天に昇ろうとするように宙を舞うのだ。

すでにこの段階から本作には 死のイメージがはっきりと明示されている。ブルース少年にとっての最後の幸せだった時間とは、両親と連れ立って映画を観に行ったことで、その直後に自分の目の前で愛する両親が殺されてしまう。そしてその時に背景に映る映画のポスターは「マスク・オブ・ゾロ」だった。バットマンの元ネタが怪傑ゾロだというトリヴィア以上に、「剣で人を殺さない」という誓いを立てたゾロを持ち出すことで、「人を殺さない」そして「銃は使わない」という本来の「バットマン」のイメージを再帰させることになる。

そう、バットマンとは、そもそも、どんな悪党さえも殺さない、道徳と倫理に秀でた厳格な「闇の騎士」だった。

このバットマンが体現する(もしくはこれまでしてきた)道徳と倫理という 壁に対し、ハンマーとなって振り下ろされることになるのがスーパーマンだ。前作『マン・オブ・スティール』で描かれたクリプトン人同士の戦いは未曾有の災害となり、ブルース・ウェインが所有するビルも破壊し、そして大切な友人や従業員を奪ってしまう結果になった。

地球外生命体の存在が明らかになり、しかも人間とは比べ物にならない強大な力を持つ存在の可能性を前に、バットマンの道徳と倫理は帰路に立たされることになる。それは世界の中心が地球ではないというコペルニクスの発見や、人間は決して特別な生命体ではないというダーウィンの進化論同様に、人々の「常識」を根底から覆すことになる大発見だった。そしてその煽りを正面から食らったのが人々の道徳と倫理の象徴でもあるバットマンだった。

つまりスーパーマンこそが、現代のコペルニクスでありダーウィンだった。

そしてスーパーマンの登場によって旧来の価値と常識は崩壊し、社会は指標を失いニヒリズムへと陥ってしまう。スーパーマンが破壊したのはビルやゴッサムだけでなく、そこに暮らす人々の道徳であり常識だったのだ。そんな混沌の世界のなか、ニーチェが提示した「超人」たちが自力で這い上がってくる。

<ここから『バットマン vs スーパーマン ジャスティスの誕生』のネタバレの可能性があります>

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物語の大筋は実はシンプルだった。

既成の常識の枠から逸脱したスーパーマンの存在を持て余した人類は、彼を味方か敵か判断できなくなってしまう。ある者はその超人的な力を神として崇め、ある者は地球の脅威として敵視する。そしてバットマンもスーパーマンの排除を目論む一方で、巨大企業の社長でもあるレックス・ルーサーはスーパーマンの正体を突き止め、その弱点だけにとどまらずクリプトン星の技術を用いて世界を破滅へと追いやる恐ろしい計画を実行に移す。

また地球にはスーパーマン以外にも超人的な力を持った「メタヒューマン」と呼ばれる存在は秘密裏に確認されており、その一人でもある女戦士もまたレックス・ルーサーを追っていた。そしてルーサーのシナリオ通りにスーパーマンとバットマンは衝突するも、やがては和解し強大な敵に戦いを挑んでいく。

これだけ見れば、異星人侵略モノにありがちな展開かと落胆するかもしれないが、その細部はかなり挑戦的で物語の深度も深い作品だった。

ここでニーチェの超人思想を簡単に説明する。

ソクラテスらが生きた「人間であることに正直だった」時代の古代ギリシアに強い憧れをもっていたニーチェは、ローマン・カトリシズムに希望を抱きながらも、西洋宗教が「弱い」大衆を救済する目的で強化していった道徳や倫理を信じ込む人々を、ルサンチマンにしがみつく奴隷的な大衆だと強く非難した。

人間が本来持つ「強い力」の欲求やその善性を否定しようとする宗教的道徳は、結局は人々を愚民と飼いならし、結果として人間としての価値を、その道徳性にのみ求めるという不健全な方程式が社会に蔓延する。宗教が弱い存在を助けるだけでなく、弱い存在のみを善とする社会となった場合「神は死んだ」も同然になってしまう。人々は神ではなく道徳を信仰するようになってしまうが、その道徳とは神の教えである以上、「神は死んだ」その瞬間に道徳も無価値になってしまい社会はその指標を失い、人々とは廃人の群れと化してしまう。

こういったディストピアを回避するためにニーチェは「超人」という概念を提示した。宗教や学校で習った道徳ではなく、たとえ「神が死んだ」としても廃人にならないで生きていける、その自由意志の重要性を説いたのだ。

本作がこの超人思想から強い影響を受けているのは、ジェシー・アイゼンバーグ演じるレックス・ルーサーのセリフの節々からも明らかだ。何度も「神は死んだ」と発言するし、「悪魔が地上から湧き出し、天使が天から降りてくる」キリスト教的な世界観を逆転して捉えるルーサーとは、まさにユダヤ教以前の価値観をもってして西洋宗教的価値観を転倒させようとしたニーチェそのものだ。

そしてスーパーマンと対峙した時のバットマン、そしてバットマンと対峙した時のスーパーマンがいずれも自分の本来の姿を失ってしまう状況はニーチェが指摘した「怪物と戦う者は自らも怪物とならないように気を付けねばならない。汝が深淵を覗き込むとき、深淵もまた汝を覗き込んでいるのだ」という警句にはまっている。

加えて物語全体を覆う「私にとっては英雄でも、あなたにとっては人殺しでしかないかのしれない」という客観的正義の不可能性とは、ニーチェから強い影響を受けた実存主義の「客観の不在」というテーマとも重なる。

つまり万人の正義など存在しないというテーゼを、それと真っ向から衝突するスーパーヒーロー映画内で描こうとしているのが『バットマン vs スーパーマン ジャスティスの誕生』であり、その傾向はクリストファー・ノーラン監督の『ダークナイト』シリーズよりも明らかに強く、濃く、そして暗い。

本作が実存的であると同時に他方ではスーパーヒーロー映画でもあることを可能にしたのは、スーパーマンが神でもありながらも物語の終盤には超人になり、またバットマンもニーチェが嫌悪した道徳の権化でありながらも、あるきっかけを共有することでスーパーマン同様に超人となるためだ。結果、ふたりは和解し協力することでスーパーヒーロー映画としても成立している。

本作ではバットマンは銃を撃ち、悪党を殺し、そして拷問までする(これはテロリストを拷問し多くの一般市民も犠牲にするアメリカを連想させる)。一方ではバットマン=ブルース・ウェインは自分が道徳的な人間だと信じて疑っていない。アルフレッドに注意されても彼は道徳を信じる故に悪を許せなくなり、結果的には非道徳的な存在となってしまう(もちろん世界の正義アメリカの皮肉でもある)。このパラドックスとはニーチェが非難した宗教的道徳の成れの果てと全く符合する。そしてブルース・ウェインの両親の墓が森のなかにあることも、ニーチェの代表作『ツァラトゥストラはかく語りき』に登場する森の中にこもり神だけを信じ続ける盲目的な聖者を連想させる。

そしてスーパーマンにとってもバットマンは叩き潰さなければならない存在だった。スーパーマンは神ではない。ひとりの悪知恵が働く人間の罠さえ見破れないのに、万能の神になれるはずがない。それでも人々は彼を神と崇めた。ルサンチマンという毒に肩まで浸かった愚民たちは弱い自分を無条件で救ってくれる存在としてスーパーマンを求めた。そして神ではないスーパーマンはその求めに応じる格好で神を演じることを無意識に選択した結果、バットマンを敵視することになる。なぜならバットマンの道徳とはスーパーマンとは違う神に基づいたものだからだ。

それぞれの正義に盲目となったふたりは衝突することになる。

しかし前述したように本作はスーパーヒーロー映画でありながら、「万人に有効な客観的な正義はあり得ない」というハードルを設けており、両者はあるきっかけを通して同時にその事実に向き合うことになる。神様を待っていても誰も救ってはくれない。救いたい者がいるのなら、誰かから教えられた道徳を頼りにするのではなく、そして誰かの要望に応えるのでもなく、自分の意思それだけをもってして問題と向き合う必要に目覚めたふたりは全く同時に超人となる。

こうしてバットマンとスーパーマンというスーパーヒーロー界の東西の横綱が、突如現れた物理法則無視の怪物「ドゥームズデイ(最後の審判)」に戦いを挑む、というのが本作の物語の意味的な流れだ。最後の審判(ドゥームズデイ)とはその日が来ても神様に天国に連れて行ってもらえるように真面目な人生を送りましょう、というキリスト教的道徳の核心部分であり、それを超越しようとするのが本作の意味なのだ。

そのためには神(≒スーパーマン)は死ななければならない。一方で超人(スーパーマン)は死んでいないのかもしれない。あの意味深なラストはニーチェの考えに基づけば必然なのだ。

ワンダー・ウーマンの活躍も本作の魅力の一つだが、物語としては「DCエクステンディッド・ユニバース」を広げる役割しか担っていない。タイトルにある通り、これはバットマンとスーパーマンの物語だ。スーパーヒーローの憂鬱を扱っておきながら、本作には驚くほどに一般人の視点が隠蔽されているのは、手垢にまみれた「スーパーパワーも一般人から見ればただの脅威」という視点を超越するためだ。それは大衆の弱さに決して迎合することなく、そこからの脱却を説いたニーチェの思想と重なる。大衆だからという理由のみで肯定される道徳など全く無価値であることを描いている。

冒頭の繰り返しとなるが、本作には欠点もたくさんある。最大の問題点とは物語の意味上で最も重要なはずのバットマンとスーパーマンが超人へと目覚める瞬間と、両者の和解があまりに淡白すぎる点だろう。時間に追われているので仕方がないとも言えるのだが、夢に出るほど憎んでいた存在を前にしての転向なのだから、何某かの葛藤が描いて欲しかった。それ以外にも「?」が点灯するシーンは多い。それでも「客観的な正義は存在しない」という本作のテーゼに当てはめるのなら、客観的に完璧な映画もまた存在しないのだから、それでいい。

マーベルのように万人に優しいスーパーヒーロー映画ではない。R指定バージョンが用意されていることからも内容はかなりダークだ。それでもこれほどまでに挑戦的はスーパーヒーロー映画は見たことがない(『デップー』未見)。弱い人間を救うのがヒーローの役目という旧来の道徳感を破壊した本作は、やがて悪党たちが世界を救う『スーサイド・スクワッド』へと至り、そして『ワンダー・ウーマン』や『アクアマン』といったメタヒューマンの活躍を描くことになる。そこにマーベルにも負けないだけの途轍もない魅力が秘められていることをはっきりと感じることができた一作だった。

『バットマン vs スーパーマン ジャスティスの誕生』:

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バットマン vs スーパーマン ジャスティスの誕生
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