『トゥルー・ストーリー/TRUE STORY』
全米公開2015年4月17日/日本公開未定/アメリカ映画/99分
監督:ルパート・グールド
脚本:デイヴィッド・カジャニッヒ、ルパート・グールド
出演:ジョナ・ヒル、ジェームズ・フランコ、フェリシティ・ジョーンズ他
あらすじ(ネタバレなし)
ニューヨークタイムスの記者フィンケル(ジョナ・ヒル)は記事を捏造したために職を追われてしまう。同じ頃、メキシコでフィンケルの名を語っていた凶悪犯罪者クリスティアン・ロンゴ(ジェームズ・フランコ)が捕まる。フィンケルが書く記事のファンだったロンゴは逃亡中にフィンケルの振りをしていたのだった。
仕事を失ったフィンケルはその事実を知るとすぐにロンゴの取材を開始し、やがてロンゴはフィンケルだけに事件の真相を語り出す。
一家惨殺犯の冤罪事件を描くとなれば地に落ちたジャーナリストとしての評判も回復できると、フィンケルはロンゴと接見を重ねる。
やがてフィンケルはロンゴのなかに自分のなかで抑圧されていた本心を垣間見る。そして信頼できない「真実」を巡っての葛藤がはじまる。
レビュー
光が投影し、影が投光する、二人の男の奇妙な共感:
いつもは一緒になってマリファナを吸っているだけのジョナ・ヒルとジェームズ・フランコが笑いやギミック一切抜き、全編シリアスに取り組んだドラマ『トゥルー・ストーリー/TRUE STORY』は、ジャーナリズムの正義と嘘を出発して、やがては心理学的な葛藤やメタファーを通過したのち、法廷ドラマに終着するという奇妙な経路を辿る作品となっていた。
ニューヨークタイムの記者マイケル・フィンケル(ジョナ・ヒル)は、センセーショナルな記事を発表するも後日それが捏造であることが露呈したために職を追われたジャーナリスト。そして自分の妻や子供らを惨殺した罪に問われているクリスティアン・ロンゴ(ジェームズ・フランコ)が自分のファンだと知ったフィンケルは名誉挽回のスクープを狙い取材を開始する。ジャーナリストとしての信頼を台無しにしたフィンケルはロンゴと接見を重ねるうちに彼が語る冤罪ストーリーに魅せられていく。そしてやがてふたりは奇妙な関係を築き、互いを自らの分身だと錯覚していく。
本作は凶悪犯の真実の告白を巡る法廷ドラマを物語の終盤に用意しておきながらも、物語の本質部分では心理学的な葛藤を様々なメタファーを通して描き出した心理サスペンスという趣になっていた。そしてユング心理学の「投影/Shadow」という概念を強く意識した内容にもなっている。
「投影/Shadow」とは自己に潜む負の性格を認めたくないときにそれを他人に押し付けては客観的に見出す心理状況のことを意味する。嫌いな人間の特徴を冷静に観察すると、それは自分自身が持っている嫌いな性格とそっくりだったりすることと同じだ。
劇中ではジョナ・ヒル演じるジャーナリストとジェームズ・フランコ演じる容疑者が接見を重ねることで、特にジャーナリストであるフィンケルの方が、自分にだけ真実を教えてくれるロンゴに自分自身を強く「投影」していくことになる。つまりフィンケルのなかでロンゴは自分自身の一部となってしまう。
例えば接見中にロンゴがさりげなく口にする「ジャーナリストは読者が読みたい記事を書くだけで、事件の真相については無関心だ」と言う言葉は、捏造の罪で肩書きを失ったジャーナリストが言いたくても言えない本心であり、ロンゴはそれを進んで代弁する。ジャーナリストとしての信頼を失ったフィンケルにロンゴは最大級の賛辞を惜しまない。それもまたフィンケルが心から欲していながらも、隠さなければならない欲求でもあった。ジャーナリストの良心によってなんとか保たれていたフィンケルの心の歪みは、ロンゴのなかに見出されることになる。かくしてフィンケルは殺人鬼に自尊心を強く刺激された結果、徐々に自分という境界を見失っていく。
本作は、信頼できない語り手が語る「真実」を信じようとした、信頼できない聞き手によって著された「真実」の物語と言える。
そして劇中でも指摘される「ダブル・ネガティブ」という英語構文上の悪例が、そのまま映画の主題にもなっている。日本語でも「嫌いじゃない訳ではない」という構文が「嫌い」という一言で表現可能なことと同じように、英語でもこの「ない・ない」と一文に否定が重なる表現を「ダブル・ネガティブ」といって構文上はあまり喜ばれない。
しかし微妙な心情のニュアンスを伝えるためにはこの「ダブル・ネガティブ」を使わざるを得ない場合も稀にある。フィンケルのロンゴに対する感情もまさにこの「ダブル・ネガティブ」なものなはずで、凶悪殺人を冒した可能性が非常に高い 取材対象は、自分の最後のファンであり自分のキャリアを復活させてくれるかもしれない存在なのだ。「彼が無罪だとは思っていない」というジャーナリストとしての冷静な姿勢のすぐ裏には、「彼が嘘をついているとも思わない」という本来は違う文脈の本心が隠されている。
ジャーナリストとしての致命的な過ちを冒したフィンケルだが、その過ちと正直に向き合うことを無意識に拒否する。捏造は明らかなのに彼は謝罪を拒み、捏造がもたらす意義すら信じようとする。結果、彼が目を反らし続けた自分のネガティヴは無意識下で無理筋な冤罪を訴える殺人鬼に投影される。まるでネガティブとネガティブが一文に登場するれば否定が肯定にかわるとでも信じているようなのだ。
こういった人格の乖離と他者との結合を描いた作品で思い出されるのはキューブリック監督作『フルメタル・ジャケット』のジョーカーとハートマン軍曹の関係だろう。本来は善悪の両方を一人の人間が矛盾なく抱えることは困難だが、善悪をはっきりと線引きしなければならない戦場においては望む望まざるに関わらず、兵士ひとりひとりが明確な善悪と向き合わなければならない。結果、兵士の感情は善と悪に二分され、まるで二重人格者のようになってしまう。
女狙撃手を助けようとしたジョーカーと、結局彼女を殺すジョーカーは同じ人間であっても同じ感情ではない。本作においてジョナ・ヒル演じるジャーナリストはまさしくジョーカーそのもので、ジェームズ・フランコは彼にジャーナリズムの戦場での生き方を教えるハートマン軍曹のような存在と言える。『フルメタル・ジャケット』がジョーカーを通して戦争の善悪を疑ったことと同じように、本作ではジョナ・ヒル演じるフィンケルを通してジャーナリズムが語る善悪を疑っている。
同様にベネット・ミラー監督の『フォックスキャッチャー』にも分裂した自己が、同様に分裂した自己を持つ他者と結びついていく過程が描かれている。
このように本作は物語レベルでかなり挑戦的なテーマに挑んでいる。しかしそのテーマの見せ方がお世辞にも上手くない。監督は本作が映画デビューであり、これまで演劇世界で活躍していたルパート・グールド。本作のように一見異なるテーマが合わさった作品では、一つの大きなテーマのなかに様々な小テーマを多層的に飾り付けていくことが普通だが、本作ではいくつかのテーマがほとんど分断される形で提供されており、物語のメタファーもあまりにもはっきりと描いてしまっている。私的にはふたりの無意識下での共犯性については、せめて物語中盤まで止めておくべきだったと思う。演出が分かり易すぎる。
色々と問題も多い作品であることは違いないが、少なくともテーマ面では特筆すべきほどに野心的な作品だと言える。
ちなみに撮影監督はデヴィッド・O・ラッセル監督『世界にひとつのプレイブック』や『ファーナス/訣別の朝』を担当した日本人の高柳雅暢(マサノブ・タカヤナギ)氏です。
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ということでジョナ・ヒルとジェームズ・フランコ共演のシリアスドラマ『トゥルー・ストーリー/TRUE STORY』のレビューでした。これはかなりタイムリーな作品で、少年Aの出版問題で日本でも話題になった「サムの息子法」や、ジャーナリストの倫理など、考えさせられることが多かったです。なおジョナ・ヒルの奥さん役がフェリシティ・ジョーンズで「そんな訳あるか」とツッコミを入れたくなるものの、ジェームズ・フランコとジョナ・ヒルの同一性が強調されておりテーマ上はよくできたキャスティングでした。ちょっとラストはヌルく感じましたが、これは実際に起きた事件の映画化ですので仕方ないのでしょう。それにしても思うのはやはりアメリカは何でもスケールがでかいな、と。日本では、コレ、一時期映画界隈にも波及した某氏の捏造問題くらいのショボさになるのでしょうが、アメリカでは一家惨殺事件ですから。でもやっぱり嘘をついたジャーナリストはアメリカではしっかりと処分されています。以上。
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