もしも隕石が地球に衝突せずに、恐竜が絶滅していなかったら?というアイデアから描かれるピクサー最新アニメーション『アーロと少年』のレビューです。臆病な恐竜と孤独な野生少年によるストレートな大冒険。
『アーロと少年/The Good Dinosaur』
全米公開2015年11月25日/日本公開2016年3月12日/アニメ/100分
監督:ピーター・ソーン
脚本:メグ・ルファーグ
声の出演:レイモンド・オチョア、ジェフリー・ライト、スティーブン・ザーンほか
作品解説
巨大隕石の墜落による恐竜絶滅が起こらなかったらという仮説に基づき、恐竜が地上で唯一言葉を話す種族として存在している世界を舞台に、弱虫の恐竜アーロが、孤独な人間の少年スポットとの冒険を通して成長していく姿を描いたピクサー・アニメーション。兄や姉に比べて体も小さく、甘えん坊の末っ子アーロは、何をするにも父親がいてくれないと始まらない。そんなある日、アーロは川に落ちて激流に飲み込まれ、家族から遠く離れた見知らぬ土地へと流されてしまう。ひとりぼっちの寂しさと不安にさいなまれるアーロは、そこで自分と同じ孤独な少年スポットと出会い、一緒にアーロの故郷を目指す冒険に出る。
レビュー|ピクサーによる「行きて帰りし物語」
2009年に製作が開始されるも途中で内容の見直しが行われ、予定された公開日から大幅に遅れる形で日の目をみたピクサー最新作の『アーロと少年』は、近年のピクサー作品と比べると驚くほどにストレートな作品に仕上がっていた。
舞台は現実世界とは違った経過を辿ったパラレルワールド。6500万年前、恐竜を絶滅させることになった隕石が地球に近づくも、ギリギリのところで地球を逸れて通過していく。「隕石が地球に衝突することなく、恐竜たちが絶滅することのなかったら?」という問いが『アーロと少年』の世界観を作っている。SF小説が得意とする歴史改変物語なのだ。
「歴史にifはない」とよく言うが、実際には「歴史にifがある」世界を想像せずにはいられない。フィリップ・K・ディックの『高い城の男』ではこの「歴史にifはない」世界での「ifがある」物語を、第二次戦争の戦勝国を入れ替えることでメタ的に語っているし、スティーブン・キングは『11/22/63』でタイムマシーンを使って「JFKが殺されなかった世界」の実現を描いている。歴史改変というのは見ようによっては未練がましく写るのだが、同時に語りたい物事を語りやすくするための状況作りにはもってこいなのだ。
ピクサーはこれまで子供の成長をただ子供の視点のみから描くのではなく、現在は大人になった「かつての子供」たちの視点でも描くことで「アニメーション」の可能性を開拓し続けてきた。子供だけが見たい映画ではなく、親子そろって楽しめるアニメだ。その傾向は最初の長編作品となる『トイ・ストーリー』から2015年の『インサイド・ヘッド』まで一貫している。もちろん本作『アーロ と少年』もその系譜に含められるのだが、一方で近年の「かつての子供」を重点的に意識した作品から一定の距離を置き、ストレートなまでに現在の子供たちを意識した作品となっていた。
物語はとてもシンプルだ。絶滅を逃れた恐竜たちは言葉を話し、農業さえも営むようになった。巨大草食恐竜プロントサウルスの一家に生まれたアーロは、兄弟のなかでも飛びっきりの臆病者で親の助けがないと何もできない。そんなある日、嵐に巻き込まれたアーロは父を失ってしまう。一家の大黒柱を亡くした家族の生活は厳しくなり、なんとか自分も一人前になろうと頑張るのだが結局は空回りしてしまい、川に流され故郷から遠く離れた場所に辿り着いてしまう。そんななかで出会った言葉も話せない人間の野生児とアーロは友情を築きつつ、困難から逃げることなく故郷を目指すのだ。
内容はピクサーの映画というよりディズニーの古典を思わせるほどにストレートな物語だ。世界観や父親を亡くすプロットは『ライオン・キング』そっくりだし、家族のもとへ帰る物語としては『ダンボ』にも似ている。これまでのピクサーの特徴だった「かつての子供」の視点は明らかに薄まり、その名の前に置かれることになったディズニー色が強くなっている作品と言える。
そして本作の物語はディズニー的であると同時に、古典的な神話のようですらある。未熟であるが故に故郷から離れることになった主人公が故郷に帰りつくことで成長していく「行きて帰りし物語」そのままだ。『インサイド・ヘッド』で子供には明らかに難しいと思われるテーマを器用にこなしたピクサーからすれば「後退」とも言われかねないほどにシンプルで古典的なテーマを扱っている。
おそらく紆余曲折した製作過程の裏側とは、この物語そのものへの議論が大部分を占めたことだろう。しかし結論として本作はシンプルで古典的なままの物語として公開された。製作陣はこれで行こうと決めたのだ。アメリカでは大ヒットとは呼べない結果となったが、だからと言って本作が駄作だということではない。それどころか、ディズニー/ピクサーとしての予感と可能性に満ちた素晴らしい作品だった。古典を新しく語り直そうとする強い意思が感じられたのだ。
その証拠として映像表現の素晴らしさはこれまでのピクサー作品からも抜きん出ている。ロッキー山脈やイエローストーン公園をベースにした自然風景の広がりは目を見張るものがある。そして本来は巨大さが強調される存在の恐竜が主人公のために、表現上でアーロの臆病さを強調するときには自然の大きさが活き、逆にアーロの成長を表すために小さな人間の少年との対比が生きることになる。自然の前では小さきものであり、守るべきものの前では大きなものであるという、本来は精神的な部分を映像として見事に再現しているのだ。自然という背景と、友情を育む人間の少年という両極端な存在を通して、アーロの成長が効果的に描かれ、物語がシンプルである分を映像演出の巧さで見事に補っている。そして大自然の風景を通してアーロの心模様も描いており、物語上では言葉をしゃべれない野生児とアーロがどのように友情を育んだのが、言葉ではない映像説明に成功している。
だからラストは感動的だ。ストレートで古典的で、誰もが最後はこうなるとわかっているのに、それでも感動してしまう。結局のところ感動というものをゴールにした場合、ストーリーの新鮮さよりも、どれだけ丁寧に細部を描き、そして観客をフラットな存在のままで物語に熱中させられるのかにかかっているのだろう。本作はその意味において、子供にとって難解になりつつあったピクサーの頬をディズニーが叩いて目を覚まさせた作品と言えるのかもしれない。
そしてわざわざ恐竜を絶滅させなかった理由というのも、とにかく感動させる、という目的を最短距離で達成させるための舞台設定だったのだと思う。
ピクサーはこれから『ファインディング・ドリー』と『ガーズ3』、その後『Coco』というオリジナル作品を挟んで、『トイ・ストーリー4』と『Mr.インクレディブル 2』を製作することになっている。2000年代のように次々と新しい作品を作り出すという状況から、成果のあった作品の続編製作へと重点を移すことになった。続編というのは前作の成功があって約束されるもののため無駄に力が入ったりして失敗する例が多い。無理に前作との違いを生み出そうとするから、驚きはあっても感動が置いてけぼりになることもある。でもピクサーが本作で、これまで何度も語られた物語だから感動できないというのは間違いだということを証明して見せた。
ピクサーがピクサーである理由とは感動にある。「行きて帰りし」物語もピクサーの手にかかれば感動せずにはいられないのだ。その原点に帰ったという意味でピクサーにとってもディズニーの存在は無駄ではなかったのだと思うのだ。
『アーロと少年』:
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ということでピクサー最新作『アーロと少年』のレビューでした。これは絶対劇場でみましょう。とにかく映像が素晴らしいです。できるだけ大きなスクリーンで見た方が絶対にいいです。物語はシンプルで「これがピクサー?」と首をかしげることもありましたが、細部では子供を酔っぱらわせてのサイケデリック演出とか毒っ気もあります。個人的には『インサイド・ヘッド』の感動ポイントがラストになかったことに不満があったりしたのですが、本作はその点においても古典的で安心して見られます。分かっていても最後に感動させてしまうあたり、シンプル・イズ・ベストな一作でオススメです。以上。
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