映画『残像』レビュー:「ある芸術家の死」が自由を目覚めさせる

640

ポーランドの巨匠アンジェイ・ワイダ監督の遺作『残像』のレビューです。全体主義がもたらす閉塞感と絶望を描き続けていたワイダ監督が描いた実在の前衛画家ブワディスワフ・ストゥシェミンスキの生涯。体制に弾圧されるも表現する自由を求め戦い続けた「ある芸術家の死」が訴えるものとは?

『残像』レビュー:「ある芸術家の死」が自由を目覚めさせる

2015年6月、保守系議員の一部が中心となって「文化芸術懇話会」なる勉強会が開催された。講師として『永遠の0』の百田尚樹氏が招かれ、出席した政治家からは「マスコミを懲らしめるには広告収入をなくせばいい」と文化芸術に関する勉強会とは程遠い発言が飛び出したことで話題になったのでご記憶の方もいるだろう。

個人的には政治に多くを期待しない性分のため現政権に対し言いたいことは特にないが、この「文化芸術懇話会」なる会合が、政治権力の中枢と近しい議員たちによって結成されたことには、筆舌尽くしがたい嫌悪感を覚える。その理由とは、芸術の「ゲ」の字にさえ関心があるか疑わしい政治家たちが、想像力の欠如と敵意だけで作られたような「反日」や「売国」というスローガンに喝采する風景とは、アンジェイ・ワイダ監督の作品によく登場する全体主義の顕著な傾向だからだ。

アンジェイ・ワイダ監督について偉そうに語れるほど詳しくはない。それでも本作『残像』は二つの意味で監督にとっての集大成だと感じた。

一つはそのタイトルにもあるように、かつて時代に殺された実在の芸術家の苦難を通して、アンジェイ・ワイダ監督も実際に体験した「あの時代」の空気感を、監督の網膜に残った残像として描いていること。

そしてもう一つはレジスタンスとして政治運動に身を投じた経験があり、その後は社会派監督として巨匠とまで呼ばれるようになったワイダ監督が、政治と芸術、もしくは政治活動と芸術という関係性について、驚くほどに冷たく描いていることだった。政治権力の暴走に反発した芸術家の魂を、甘ったるい感動演出でドラマチックに仕上げる意思は影さえ見えず、監督自身が経験した挫折と諦観を織り交ぜながら、あくまで冷徹な視点で両者の位置関係を明確に提示している。

『残像』の中で描かれる政治と芸術の関係性とは言葉にすればこうなるだろうか。

政治はあらゆる手段で芸術を取り込もうとするが、芸術とは本質的にあらゆるイデオロギーに優先する

全体主義が残した残像

本作の舞台はスターリン主義に基づく全体主義体制が芸術分野にまで侵食していた第二次大戦後のポーランド。ナチスドイツによって分断された国土は、戦後すぐからソ連体制の影響下に組み込まれ、再び暗黒の時代に入ろうとしていた。

そんな息苦しい時代の中、前衛画家として内外から高い評価を受けていたブワディスワフ・ストゥシェミンスキは芸術の分野にまで社会主義リアリズムを実践させようとする当局を公然と批判。そのために大学を追われ、作品だけでなく芸術家としての資格まで奪われ、食糧配給まで受けられなくなってしまう。

パンだけでなく、画材を手に入れる術まで奪われたストゥシェミンスキはそれでも表現者として生きることを最後まで止めなかった。

このように『残像』で描かれるのはストゥシェミンスキの死だ。正確には、ストゥシェミンスキという名の、時代から消去された「ある芸術家の死」についてだ。ストゥシェミンスキという人物が芸術家としていかに偉大であったのかについては必要最低限しか描かれず、あくまでワイダ監督が対象として選んだのは彼の死であり、その死因についてだった。

そのため彼が第二次大戦終了前まで何をやっていたのかについては本編ではほとんど語られない。観客に知らされるストゥシェミンスキの過去とは、「戦争に従軍したことで深い傷を負っていること」、「偉大な芸術家として高く評価されていること」、そして「革命の高揚と失望のいずれも体験していること」くらいだ。

これらストゥシェミンスキの過去の要約とは、アンジェイ・ワイダ監督を紹介する際にも欠かすことのできない最低限の情報と共通する部分が多い。しかしワイダ監督は安易に自身とストゥシェミンスキを結びつけることはしない。本作がワイダ監督にとっての遺作であり、その主題が「ある芸術家の死」であることから、観客もそこに不屈の映画監督の魂の叫びのようなものを聞き取ろうとするだろうが、そんな大仰な演出自体がストゥシェミンスキの理論からすれば芸術性を放棄し、感動の画一化をもたらす可能性となることも忘れたくない。

本作は「そういう」映画ではない。

「抵抗三部作」でも見られるワイダ監督による冷徹で残酷な結末の提示は本作でも健在だが、ナチスからソ連へと国土が蹂躙され続けるポーランドの絶望を描いた一連の代表作とは違い、本作の対象はあくまで「ある芸術家の死」に限定されている。しかし限定される一方で、作品はポーランドという国家の持つ特殊な地政学的立場から解放され、時代や場所を超える普遍性を獲得しているとも言える。

本作から教訓を感じ取るのに、ブワディスワフ・ストゥシェミンスキという画家がどれだけ偉大であったのか知る必要はない。これは彼の偉大さを讃える映画ではなく、その偉大さがこうも簡単に体制によって消されてしまう過程を描いている。

そして抵抗三部作では必須と言えるポーランドの悲運の歴史も後から調べ直せばいい。『残像』で描かれる「ある芸術家の死」の舞台が戦後ポーランドである必要とは、あくまで便宜的なものだ。

劇中でも紹介されるように「残像」とはものを見たあとに網膜に残されるイメージを指すのなら、本作はまさに、激動のポーランド史を体験したワイダ監督の網膜に居座り続けた、全体主義がもたらした荒廃と爪痕の残像だと言えるだろう。

全体主義の恐ろしい本質とは

全体主義とは個人が全体に準ずることを強制する政治思想だ。単純な独裁体制と違って、個人よりも尊重されるのがその個人を含んだ全体の利益ということもあり、全体主義と個人の尊厳に関する議論はほとんど宿命的に空転する。そして議論の時間だけが虚しく過ぎていき、最終的には権力側が物量で押し通す結果となる。

その対義語であるはずの民主主義が広く行き渡った社会では、完全に駆逐された遺物であると思われるかもしれないが、ハンナ・アーレントが指摘する通り、全体主義の必要要件とは「テロ」と「イデオロギー」であるとするなら、民主主義を建前とした全体主義の萌芽は同時代を見ても別段珍しい現象ではなく、現代的とさえ言える。この「民主的全体主義」という意味不明な修辞こそ、実は全体主義の核心でもあるのだ。

個人の自由が行き渡ると、それまで共同体を引き止めてきた不自由な地域性や社会性が崩壊をはじめ、結果個人は社会から見放されたと感じるようになり、その個々人が抱く漠とした不安感の広がりの中に全体主義が萌芽する余地が生まれる。主に共産主義がその触媒になると言われているが、戦前の日本を見ればその限りでもないことは我々が一番知っているはずだ。

自由を勝ち取ったと信じた社会が、その過信のせいで健全な社会性を失い、それでも社会を無理に繋ごうとすれば過度な「イデオロギー」が蔓延することに。結果、社会は分断され「テロ」などの社会不安が増大する。そしてその「テロ」の根治を当局が諦めることで、それまで個人の自由を保証してきた法治体制そのものへ為政者たちの疑義と、民衆の社会不安とが恣意的に重ねられる。そしてその疑義はあっという間に「イデオロギー」という名の体制への忠誠と服従を強制するプログラムへと回収されていき、産声も聞こえぬままに誕生した全体主義は多くの民衆がそれと気づかぬままにその輪を閉じて完成してしまう。

『残像』の中でもスターリン主義者たちによるプロパガンダが繰り返し紹介される。中でも「このイデオロギーの中身は理解できなくてもいい。あなた方は我々が常に正しいことを知っているのだから、ただ賛成すればいいのですよ」というセリフが登場した時は思わず苦しくなった。

結局のところ全体主義の最大の脅威とは「自由が限定される」という矛盾状態にあるのではなく、人間生活の価値を政治的文脈で完結させようとする社会制度にあるのだとひとまず断言したい。表現の自由の制限とはその一例でしかなく、本質的には「自分自身」という存在に付随する意味や価値を、その当事者である「自分」が自由に解釈する権利を収奪することにある。

全体主義的な社会では、自分で自分の価値を決めたいという自由な裁量は全く認められない。

そこは個人がどれほど政治的動機に関連して体制に貢献したかという尺度のみで個人が階級化される社会。私のように選挙が近づくとついつい新しいゲームを購入してしまう非政治的市民はエタヒニンにも入れてもらえない、文字通りのアンタッチャブルになってしまうのだろうか。そもそもそんな社会では『ペルソナ5』も『ウィッチャー3』も発禁になっているだろうから、休日も特にやることなく政治運動にでも参加するかと血迷い、結果的に当局が望む政治参加を自己実現しているのかもしれないが、そんな自分は前のめりで肥溜めにでも突っ込んで死んでしまえばいいと本気で思う。

自分が好きなものをただそれが好きという理由で夢中になる権利は、全ての行動原理がイデオロギーと連動することが求められる社会では決して認められない。そして何より恐ろしいのが、自分が満足なら社会から認められなくてもいい、という立場も同様に認められないことだ。全体の利益を最優先する社会とは、その利益に少しでも反する個人を集団で攻撃し抹殺することを正義として解釈するようにプログラムされている。

つまりこういった世界では「イデオロギー」と「アイデンティティ」がほとんど同義に扱われることになるのだ。「アイデンティティ」と「イデオロギー」とは、使っていると頭が良くなった気がして気持ちよくなる単語という共通性はあるが、本来の意味は全く違うものだ。

「イデオロギー」とは共同体を運営する上で理想的、もしくは必要だと考えられる思想体系を指す。一方で「アイデンティティ」とは自己同一性などと訳されるから難しいのであって、生まれると自動的に手に入る国籍、民族、場合によっては社会的地位といった選択不可な要素を全て剥ぎ取った後に残される「あなたという存在」を規定する本当に大事なものを指す。

わかりやすく噛み砕けば「アイデンティティ」とはあなたが望むあなたが実現可能な居場所であり、さらに粉々にすれば、それがなくなってしまえば生きる意味さえ失ってしまうものこそがあなたの「アイデンティティ」だ

しかし全体主義体制では、「アイデンティティ」の価値は「イデオロギー」に上書きされてしまい、あなたが生きる意味も全体の利益に置き換えられてしまう。前述した本作に登場するセリフの「イデオロギー」という部分を「アイデンティティ」に置き換えるとその恐ろしさがよく分かるだろう。

アイデンティティ(イデオロギー)の中身は理解できなくてもいい。あなた方は我々が常に正しいことを知っているのだから、ただ賛成すればいいのですよ

つまりあなたという人間の価値を体制が決めることに賛同を求めているのだ。「あなたがあなた自身を理解できなくても我々はちゃんと分かっているので、当局の言う通りに生きてください」と。まるでジョージ・オーウェルやレイ・ブラッドベリなどの近未来小説に登場する魂のない藁人形たちの言葉のようだが、本作はもちろんSF映画ではなく、1949年から52年までのたった4年間に全体主義がポーランドという国を蹂躙し、一人の芸術家を殺すまでの歴史的事実なのだ。

そういった全体主義社会の行く末についてはSF小説同様に歴史が事細かに教えてくれる。そこではもはや明確な指揮系統さえ必要としない。全体に許された権利として、個々人の自由は食いつぶされ、価値あるものを全て飲み込んだ結果、最終的には自分の尻尾しか食うものがなくなった蛇のように、全体主義は自らまでも敵対し食うことで終焉する。そして全体主義の通った後には、分断と荒廃の記憶以外は何も残らない。現在のワルシャワが第二次大戦後にゼロから再建された一方で、戦争の影響をほとんど受けなかった古都クラコフが今でも変わらず美しい理由とはそこに建てられたアウシュビッツ収容所の存在と密接に関係している。つまり無数のユダヤ人の死があって、クラコフは美しい。これを是とするのが全体主義の素顔だ。

もちろん街の美しさと100万人の命が等価であっていいはずがない。

このように全体主義とは歴史が積み立ててきた人間の営為の価値や意味までも、無慈悲に根底から覆してしまうのだ。

ポーランドの近代史とはこういった悲劇の連続だった。そしてポーランドだけでなく、ドイツでもソ連でも日本でも中国でも、これまで世界中で度々繰り返されてきた悲劇でもある。

無数の「ある芸術家の死」の上に立つ自由

映画の内容から外れ長々と全体主義に対する呪詛を書き連ねたが、大戦の記憶も薄れゆく今になってワイダ監督が60年以上前の全体主義の残像を物語として残した理由を慮ると、次から次へと書きたいことが出てきてしまう。

なぜなら本作で描かれる「ある芸術家の死」が我々に伝えるものとは、個人の自由とは決して黙って与えられるものではないということだから。この時代に生きていれば自動的に享受できると信じられる「個人の自由」という概念が、本当はどれほど苛烈な戦いの果てに先人たちが勝ち取ったものなのか我々には知る必要がある。そして一度勝ち取った「個人の自由」は黙ってヘラヘラしていれば次の時代に自動更新されるものでは決してないことも自覚せねばならない時期に来ているのかもしれない。

表現の自由というと近年は極端な事例を巡る論争の中で引き合いに出されることが多く、その経緯については語られることも少ないが、本作は我々が当たり前のように享受している「映画」や「文学」や「ゲーム」や「アニメ」や「音楽」といった愛すべき全ての表現物が、無数の「ある芸術家の死」の上に成り立っていることを思い出させてくれる。

「ゲーム」や「アニメ」を含めた表現物を芸術と呼ぶことに違和感を覚える方もいるかもしれないが、ストゥシェミンスキは芸術を「生活の中で機能し、それ自体が生活にとっても不可欠な存在である」と規定している。つまりは何が芸術であるかという判断は個人の自由な生活に委ねられるべきで、その限りにおいて、芸術とはあらゆるイデオロギーに優先すると考えた。

イデオロギーで連帯した集団が権力に近づく時、どこからか腐臭が漂いだす。そしてその腐臭に釣られた藁人形たちはその原因であるウィルスに自主感染しては、忠誠の証として自発的にそのイデオロギーの限りではない隣人を報告し始める。やがて報告対象は、その集団には理解できない全ての領域にまで及んでくる。密告だ。こうして官許を得た民衆相互監視のもとで事実上の検閲体制は完成し、世界はディストピアに早変わりする。

芸術が本質的にイデオロギーを信用してはいけない理由とはこれだ。表現の自由の侵害とはイデオロギーの中身の問題ではない。イデオロギーとは全体主義というウィルスにとってただの宿主であり、頭の中身はお花畑だろうが軍艦マーチだろうが伊福部マーチだろうが何だって構わないのだ。矛盾するようだが、「表現の自由を守る」と言うスローガンを掲げた全体主義体制による検閲も当然起こり得る。

そしてワイダ監督の映画人としての半生とは検閲との戦いだったとも言える。思想の対決ではなく、芸術の自由を制限する検閲と戦った映画人だ。

監督の代表作の一つに『大理石の男』という傑作がある。映画学校の女子学生アグニェシカはドキュメンタリー製作の題材として、50年代に労働英雄として賞賛された男を取材しようと消息を探す。『残像』で描かれる時代を実体験として知らないアグニェシカは、一人の名もない労働者の取材を通してポーランドの過去と現在の真実を知り、一度は上層部からの圧力という名の自主規制で取材を諦めるも、暗黒の時代を知る父親からの後押しで取材続行を決意するまでを描いている。

この『大理石の男』はポーランド当局から上映禁止を言い渡されるも、78年のカンヌ映画祭では当局の監視をすり抜けて試写を強行したことでも有名な作品であり、個人的にはワイダ監督の芸術観がもっとも反映されている作品だと思う。

そして『残像』のラストシーンを見ながらその『大理石の男』を、もう一度、今こそ見返さなければと思った。

『残像』の最後、困窮を極めたストゥシェミンスキに死は突然訪れる。その死を聞き病室に駆け込んだストゥシェミンスキの一人娘だが、そこにあるはずの父の遺体はすでになかった。父親が数時間前に息を引き取った場所で冷たく虚空を見つめる彼女の姿に、『大理石の男』のアグニェシカの決意を重ねずにいられなかった。体制に翻弄された一人の名もない労働者の半生を通してアグニェシカが「知る権利」と「表現の自由」に目覚めたように、あの病室に佇む少女もまた父の無念の死を通して、誰よりも自由の尊さを学んだはずだ。

もちろんその死は『残像』を鑑賞する我々にも同じことを教えてくれるし、ワイダ監督の死にも同様の意味が帯びている。

アウシュビッツがあるポーランドのクラコフには浮世絵など日本の芸術作品を多数所蔵する立派な日本美術センターがある。15年ほど前に訪れた時、ポーランドでも美味しいあんぱんが食べられることや、日本語を学ぶポーランドの学生の多さに驚いた。親日家のワイダ監督が発起人となって建てられたものだ。

そんなワイダ監督は3.11の時に被災者に向けてこんな言葉を送っている。

「日本の友人たちよ。あなた方の国民性の素晴らしい点はすべて、ある事実を常に意識していることとつながっています。すなわち、人はいつ何時、危機に直面して自己の生き方を見直さざるをえなくなるか分からない、という事実です」と。

さらに続けて、自然の脅威によって何度も破壊され、そして大戦時には多くの街が失われながら悲観に暮れることなく立ち直る日本の国民性をワイダ監督はこう賞賛している。

それにもかかわらず、日本人が悲観主義に陥らないのは、驚くべきことであり、また素晴らしいことです。悲観どころか、日本の芸術には生きることへの喜びと楽観があふれています。日本の芸術は人の本質を見事に描き、力強く、様式においても完璧です」と。

ワイダ監督が日本の芸術から学んだように、きっと我々も監督の作品から多くを学べるはずだ。私もワイダ監督同様に日本人の美徳とは生きることを喜び、生きることに楽観する自由な精神にあると信じたい。間違っても、個人の幸せを制限するような言動はワイダ監督が愛した伝統的な日本人の特性とは全く相容れないもののはずだ。

レビューの冒頭で紹介した「文化芸術懇話会」なる勉強会で、ある議員はこう発言したと言う。

「マスコミを懲らしめるには、広告料収入をなくせばいい。われわれ政治家、まして安倍首相は言えないことだ。文化人、あるいは民間の方々がマスコミに広告料を払うなんてとんでもないと経団連に働きかけてほしい。」

この政治家は文化や民間人を一体何だと思っているのだろう。

この唖然とするような日本の政治家の言葉と、『残像』に描かれるワイダ監督からのメッセージ。どちらが豊かな日本の将来を本当に願っているのか、、、、、などと問いかけること自体が監督に対し失礼だろうから、せめて劇場でご鑑賞を。

映画『残像』は2017年6月10日より岩波ホールを皮切りに、順次全国公開。お近くの公開館はこちら(zanzou-movie.com/info/)からチェックしてください。

おすすめです。そして3.11時のメッセージ全文も是非一読ください。

アンジェイ・ワイダ監督による3.11メッセージ全文:47NEWS

<スポンサーリンク>

640.jpg