映画『スターシップ9』レビュー「地上を見捨てない正しいSF映画」

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『ヒドゥン・フェイス』脚本家アテム・クライチェの長編初監督作『スターシップ9』のレビューです。荒廃した地球を離れ未知なる惑星を目指して恒星間航行を続けるエレナは、その途中でシャトルの故障を修繕するためにやってきた青年アレックスと出会う。あっという間に惹かれあった二人だが、それは決して偶然ではなかった…

『スターシップ9』レビュー:地上を見捨てない正しいSF映画

近年、かつてないほどに映画のジャンルという枠組みが無意味化している。理由はきっと「物語」という荒唐無稽な想像の産物に対して、分類学の手法が役に立たなくなっているためだ。既存するジャンルのルールを意識的に破壊し突破していく意図を持った作品を前にしては、差異を積み重ねることで体系的な意味を見出そうとする分類学的行為そのものに意味が見出せなくなったためだろう。分類に必要な映画の機能的な差異が、製作者の手によって意図的にはぐらかされることは今に始まったことではないが、いわゆる「ジャンル映画」という枠組みで歓迎されてきたその方法論は今ではより巨大なマーケットでも活用されるようになり、同性愛をメタファーとする子供向けアニメや、現実の政治的閉塞感を背景としたコミックヒーロー映画など、作品の要約には「SF」「アクション」「ホラー」といった作品傾向で区切ったジャンルではなく、「CGアニメ」「アメコミ」「ゲーム」「マンガ」と言った分かり易い属性の方が重要視されるようになっている。

「ジャンル」は映画の結末や嗜好性を示唆する一方で、現実には対象作品の数が膨れ上がってしまいよほどの好事家でしか体系的に作品間の関連性を掴めなくなってしまったため、属性を伝える方が作品について誤解なく紹介できる潮流が出来上がったためだろう。

こういった映画を取り巻く現状を理解しつつ、映画『スターシップ9』からは時代錯誤な「正しいSF映画」という印象を受け取った。誤解しないでほしいが、本作はとても意欲的で、何より優れたSF映画だ。作品そのものが時代錯誤なのではなく、設定と属性を重視する潮流に逆らうようにジャンルとしてのSF映画を前進させようとする意思を持つ作品として本作は「正しいSF映画」だと感じた。

物語は一人の女性視点ではじまる。彼女の名はエレナ。彼女の両親は汚染された地球を十数年前に脱出し恒星間飛行に旅立ち、その途中でエレナは生まれた。しかしシャトルの異常で酸素供給が困難になると、娘の命を永らえさすために少しでも酸素の消費を抑えようと両親は死を選んだ。それ以来、いつ来るかわからない救援を待って、エレナは一人きりで生きている。

ある日とうとうエレナの乗るシャトルに人間がやってくる。酸素システムの修理のために来たアレックスという名の若い技術者だ。彼はエレナにとって初めて見る人間、正確には初めて見る両親以外の人間だった。たった数日の滞在の中でアレックスに特別な感情を持ったエレナだが、修理が終わると彼は母船へと帰っていった。

またしても始まったエレナの孤独な日々。しかしそれから数日後、何の予告もなく突然アレックスがシャトルにやってくる。そして彼はエレナに「ある事実」を告げ、そこから二人の逃避行が始まる……。

と、ここまでが驚くべき手際の良さで過不足なく描写されていく。これはジャンル映画の強みだ。作品性と観客が求める方向性が予め重なることで余計な回り道を必要とせずに最短距離で結末まで突き進んでいく。本作の上映時間は約90分。この理想的な尺の中に、大小様々なサプライズを散りばめ、なおかつSFというジャンル内で伝統的に許された謎解き、恋愛、成長といった要素が折り重なるようにしてひしめいている。しかも物語の展開が、何者かに急かされるように都合よくショートカットしたり、逆に説明過多な贅肉でブヨブヨになることもなく、90分全てがSFというジャンル内でしっかりと収まっている。これは本当に賞賛されるべきことだと思う。

もちろん傑作とか名作といった類の作品ではないし、大ヒットするものでもない。それでも例えば本作と設定が近似するかに見えるクリス・プラット&ジェエニファー・ローレンス共演の『パッセンジャー』などとは比較するのも申し訳ないほどに、スリリングで何より「SF」をしている作品として評価できる。あっちは間抜けなストーリーをバカみたいな制作費とA級俳優の演技でなんとか仕上げただけの凡庸極まりない作品だが、本作はA級俳優は一人も出てこないしCGもほとんど使われていない低予算映画だが物語のテーマを見失うことなく、図太い一本の背骨によって作品全体が支えられている優れたSF映画だった。

それではSF映画の構成要件とはなんだろう。

ロバート・A・ハインラインやフレドリック・ブラウンが言うように、現実世界の延長として地球の物理法則や論理と整合する物語のことをSFと呼ぶのが一般的だろう。主に「SFとは?」という問いは、ファンタジーなど一見すると類似性の高い他ジャンルとの比較で持ち出されるものだったが、前述したように映画におけるジャンルの意味が形骸化した現在では、他ジャンルとの差異に着目した説明ではその問いの回答としては不十分と言える。「剣と魔法の世界」がファンタジーで、「宇宙」がSFという説明では意味がない。

宇宙旅行の実現を目前にした現代では、「宇宙」という存在がSF映画の構成要件ではなくなったかに見える。何も『ミクロ決死隊』的なバリエーションについての話ではない。50年代で言えば、不思議なロボットや醜悪な異星人を描き未来と宇宙の空白の説明を試みることでSF映画と分類された一方で、現代ではそれだけを描く映画は主に「アサイラム映画」と呼ばれ、それこそ半笑いを込めた属性で説明されることになる。

では現代に許されたSF映画とは何だろう、という問いに対する一つの答えが本作『スターシップ9』と言えるかもしれない。

その中身については上述のあらすじ以外は記述しない。ストーリーの分岐などはインターネットを使えば事前に収集できるだろうが、もし少しでもSF映画に関心があって、若く野心的な映像作家の出発点を見逃したくないのなら、余計な情報は持たずに映画館に行くべきだ。なぜそう思うのかという内容に沿った解説は、作品の価値を損ねる可能性もあるのでここではあえて自粛しよう。しかしそれではレビューにならないので、本作『スターシップ9』から見る現代に許されたSF映画のあり方について所感を述べるに留めることにする。

それは「イーカロスの翼」や「バベルの塔」と言った宗教的教条を、すぐそこの未来として解釈することにあると推測する。いずれの神話も「驕りが産んだ破壊的な結末」を描いている。同時に両者とも「高み」を目指した結果、地上に再び突き落とされる過程から教訓を伝えようとする。イーカロスはギリシア神話的な神の専制によって幽閉されるも親父と一緒に蝋の翼を作り脱出を試みるのだが、調子に乗って地上から離れすぎて太陽に蝋を溶かされて墜落、地上で死ぬ。バベルの塔も神の領域たる天に届く巨塔を建設するも、結局は神によって簡単に崩され、加えて共通言語まで奪われた人類はこれまで経験したことのない混乱を地上で味わうことになる。いずれも人類としての「分際」を忘れた報いだ。

地上から離れようとすればするほどに地上が近づいてくる。人類が地球を捨てようとすればするほどに地球は人類を逃さない。この教条的な皮肉こそが宇宙を舞台とするSF映画を描く現代的なほとんど唯一の「設定」となるのではなかろうか。地球にはまだたくさんの未知と克服すべき課題が存在するのに、その探索と研究をほっぽり出して宇宙へ向かおうとする分際を忘れた人類の罪と罰を、予想可能な現実的未来として描くことが現代に許されたSF映画の主だった枠組みとなるのかもしれない。そしてその皮肉に応じる形で、本作では現代の潮流である「設定」という属性に頼る手法から逃れることでSFらしさを獲得してみせた。

映画ジャンルの崩壊は、状況設定やキャラクター間の特殊な関係性を重視する「属性映画」の流行を生んだ。これはある意味で物語の喪失でもある。SF映画はこの影響をもろに食らったジャンルの一つだ。元来壮大になりがちだったSF作品において状況設定やキャラクター造形とは物語を補完し強化するための一つの内的要素でしかなかったはずが、既出の『パッセンジャー』だけに限らず奇抜な状況設定と愛されるキャラクター性のみをエンジンにして惰性で結末まで先伸ばされただけの作品までも、ただ近未来や宇宙が舞台というだけの理由でSFの範疇で語らなければならなくなった。こんなのは設定の暴力だ。空気抵抗のない宇宙ではわずかな力でも確かに宇宙船は進むことはできるが、映画に関してはそんな惰性では観客をスクリーンに釘付けになどできない。

近年クソみたいなSF映画が量産される理由にはやはり物語性の喪失が大きく関わっていると思う。設定というその場しのぎのアイデア勝負に心奪われた結果、地上との関係を失い、ラノベに見られる異世界モノの量産と同じく似たような設定が溢れ出した。そのため作品間の差異を強調するためにバリエーション・ルートの開拓にのみ関心が向けられるようになる。当たり前だが映画は登山とは違う。山の頂点はそこを動かないが、映画の頂点(=結末)とは観客視点ではそこに立つまでわからない。本来「ジャンル」とはその不確かな頂点(=結末)の居場所を暗示する意味合いもあったはずだが、それが消えたせいで、多くの観客がコンパスもアイゼンもピッケルを持たずに難度だけがバカみたいにインフレしていくバリエーション・ルートを登攀させられているのが現状だ。

しかし本作では序盤で紹介される特殊な「設定」は物語が進むにつれて次々と破壊され裏返しされ、気がつくとこの映画の頂点(=結末)に立っていた。それは登り始めた頃は想像もできなかった高みであったが、しかし、しっかりと地上と繋がったままだった。

状況設定を重視する属性映画ではSFという言葉すら「現実から遠く離れたどこかの世界で起きた出来事」程度の意味しか持ち得なくなる。もちろんSFの意味は「サイエンス・フィクション」という言葉が喚起するイメージの集積でしかない。だからこそSFという言葉の理解には個人差があるし、さらに言えば、だからこそSFという世界の中でいくらでも「嘘」がつける。それが物語の骨子なのだ。しかしソシュールが指摘したように、言葉とは流行に敏感に反応し、最大公約数的なイメージを求めるように出来ている。その通り当分はSF映画に限らず、物語よりも設定が重視される傾向は続くのだろう。

しかしそんな流行も長く続くはずがない。くだらないSF映画はもう腹いっぱいだ。コントみたいな設定頼りの映画は、特にSF界隈ではもう見たくない。本作で長編映画デビューを果たしたアテム・クライチェ監督も似たような不満を抱いていたのではないだろうか。設定頼りのSF映画は往々にして地上との繋がりを見失ってしまう。しかし本来地上と宇宙とは、一枚の紙を40回ほど折り重ねれば月に到達するほどの厚さになることと同じように、言葉のイメージほど明確に分離されていない。本作では地上と宇宙の連続性を強く意識していることが「正しいSF映画」という印象を強くさせているのだろう。

秀逸な脚本と見事な展開力、そして解釈の余地を残した結末とどれも平均水準を大幅に上回る出来栄えで、惜しむらくは劇中音楽が凡庸なことくらい。

アイデア一発のアイキャッチ的なSF映画にうんざりしている人にこそおすすめの一作が映画『スターシップ9』です。

面白かった!

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