特撮怪獣の原点でもあるキングコングの起源を解き明かすアドベンチャー大作『キングコング 髑髏島の巨神』のレビューです。「全編クライマックス」の宣伝に偽りなしのノンストップ怪獣アトラクション。謎の髑髏島に足を踏み入れた隊員たちが目の当たりにした怪獣バトルロワイアルの行方とは!?
『キングコング 髑髏島の巨神』
全米公開2017年3月10日/日本公開2017年3月25日/怪獣映画
監督:ジョーダン・ボート=ロバーツ
脚本:ダン・ギルロイ、マックス・ボレンスタイン
出演:トム・ヒドルストン、ブリー・ラーソン、サミュエル・L・ジャクソン、ジョン・グッドマン、ジョン・C・ライリー、トビー・ケベル
レビュー:髑髏島で見た闇の奥
『キングコング 髑髏島の巨神』のネタ元や引用元は傑作戦争映画から日本のカルトアニメまで広範囲にわたるが、物語の背骨となっているのはジョセフ・コンラッド著『闇の奥』だ。ベトナム戦争が舞台ということで『地獄の黙示録』との関連が注目されがちだが、そもそも『地獄の黙示録』はコッポラ監督が『闇の奥』をベトナム戦争に置き換えて映像化した作品な訳で、劇中でトム・ヒドルストン演じる元特殊部隊員の名前が「コンラッド」であることや、第二次大戦中に髑髏島に不時着した米兵の名前が『闇の奥』の主人公と同じ名前(マーロウ)であること、そして「川を遡る」ことで物語が展開していくことなど、両者の共通性はキングコングの存在理由なども含めて枚挙にいとまがない。
『闇の奥』はイギリスの小説家、ジョゼフ・コンラッドの代表作。アフリカがヨーロッパの植民地であった時代のベルギー領コンゴを舞台に、船乗りマーロウが自分の体験を独白する形式で書かれた小説。
若かりし頃のマーロウはふとアフリカで仕事をすることを思いつき、コンゴに向かう。様々なトラブルや鎖に繋がれた黒人奴隷たちの姿を目の当たりにしながら、旅を続けるマーロウだったが、彼は噂で聞く一人の男の存在に関心を抱いていく。その男の名前はクルツ。象牙売買などで富と権力を得たクルツは上司の命令も無視し、コンゴの奥地でその信奉者たちと暮らしていたが病気で伏せているとも言われている。
こうしてマーロウはコンゴ川を遡りながら、クルツの保護を依頼される。未知の大地アフリカの闇の中を突き進んでいくマーロウは、西欧ならざるアフリカの奥地を旅することで、やがては西洋社会のみならず人間誰しもが抱える闇を垣間見ることになる。
『闇の奥』は様々な読み込みができる小説ではあるが、現代になっても続く「西欧と未開」との対立を文化的衝突という外的現象とはみなさず、一人の船乗りの心の中に内在化させたことが作品の肝と言える。
そして『キングコング 髑髏島の巨神』にもこの『闇の奥』的な視点はとても有効に作用していた。
でもそんな名作文学との関連性を指摘するまでもなく、『キングコング 髑髏島の巨神』は娯楽映画としても完成している。
怪獣のために怪獣映画
『ゴジラ GODZILLA』公開時に評価を二分させた「ゴジラがなかなか登場しない」問題は『キングコング 髑髏島の巨神』には、ない。オープニング、太陽から降ってくる米兵と日本兵による海岸線での戦いから、息をつく暇もなく、キングコングは登場する。暗闇の中から徐々に姿を表す、、、とかではなく、いきなりぼーんとコングのお出まし。
この時点でジョーダン・ボート=ロバーツ監督が「怪獣映画」を撮ろうとしていることがわかる。
「怪獣映画」を、どんな怪獣が登場しどんな風に戦うのか、という関心を推進力とする映画ジャンルだと仮定した上で、『キングコング 髑髏島の巨神』は1933年のオリジナル『キング・コング』からレイ・ハリーハウゼンの『シンバッド七回目の航海』や『アルゴ探検隊の大冒険』といった傑作怪獣映画を現代の技術で再現したのなら、それでも面白い怪獣映画となるのかという疑問に答えることになっている。
例えば『アルゴ探検隊の大冒険』のストーリーはほとんど覚えていなくても、7人の骸骨剣士のあのクリーチャー然とした威厳を忘れられないことと同じように、怪獣映画の良し悪しは決してストーリーだけに依存するものではない。そして劇中ではキングコングの登場から場面が替わり、人間側の簡単な紹介が行われた後、舞台が再び髑髏島に移ってからは、親しみがあるようでいて見たことのない生物たちがウジャウジャと参戦してきてくれる。
そして物語は『ゴジラ GODZILLA』同じ映画世界「モンスターバース」内でに出来事として描かれる。
ベトナム戦争末期、撤退を余儀なくされる現状に不満をもつ軍人パッカードは、任務終了を前に本部から発見されたばかりの謎の島の探索を依頼される。周囲を分厚い永久暴風圏に覆われていたため今まで未発見だったその島に何かが潜んでいると見立てた「モナーク」の研究員も、その探査に同行する。
人目に晒されることなく下界から隠れて存在してきた髑髏島にヘリコプターで上陸した一行だったが、爆弾を落としてその振動をデータに島の地質を確認しようとしていると、いきなりキングコングから手荒い歓迎を受け、ヘリコプターはあえなく全機撃墜されてしまう。
ベトナム戦争にも破れ、簡単なはずの任務でも部下を失ったパッカードは怒り狂い、謎の巨大猿を殺害するまで島を出ないことを決意する一方、調査隊のリーダーでサバイバルに長けたSAS(特殊空挺部隊)隊員のコンラッドと戦場カメラマンとして同行したウィーバーは、髑髏島の得意な生態系には人知を超えた神秘が宿っていることに気がつく。
髑髏島から逃げ出るため島の反対側まで辿り着かなければならなくなった一行は、キングコングだけではない巨大で奇怪な生物たちと出会いながら、生き延びるために川を遡り、脱出ポイントを目指す。そしてその途中、彼らはキングコングが髑髏島を一人で守る理由を知ることになるのだった。
髑髏島の闇の奥に何を見る
話を少し『闇の奥』に戻す。
『闇の奥』には様々なキャラクターが登場し、そのほとんどが頭蓋骨を収集していたり、血の気が多かったり、上昇志向が強かったりと、ロクでもない性格の持ち主。中でも極め付けが『地獄の黙示録』カーツ将軍のモデルであり、近代ヨーロッパの矛盾の全てを自己に宿すような奇人クルツだ。T・S・エリオットが自分の詩の中に引用するほど、このクルツという人物は奥深い闇を抱えている。そしてその闇は植民地主義からベトナム戦争と経由し、現在でも世界のどこマニ存在し続けている。
『闇の奥』では船乗りのマーロウがクルツの闇に肉薄する。
では『キングコング 髑髏島の巨神』はどうだろう。
『闇の奥』の語り手マーロウとは、サミュエル・L・ジャクソン演じるパッカードも、トム・ヒドルストンもブリー・ラーソンも含めた髑髏島で生き残った人々の象徴である。『闇の奥』でマーロウはクルツを保護しようとし、『地獄の黙示録』ではマーロウに相当するウィラード大尉は逆にカーツ大佐を殺そうとする。そして逆の視点から見れば、コング殺しに熱中するパッカードとは『地獄の黙示録』のウィラードであり、コングを保護しようとするリーダーやカメラマンは『闇の奥』のマーロウ的だ。
もちろん『キングコング 髑髏島の巨神』で『闇の奥』でのクルツと『地獄の黙示録』でのカーツ大佐に相当するのは、キングコング以外にいない。未開の大地でただ一人の王として君臨するキングコングとは、西洋の視点では未開のジャングルで頭がおかしくなった狂人であり排除すべき存在である一方、髑髏島の生態系を考えれば保護されるべき対象でもある。
『闇の奥』においてクルツは保護すべき「英雄」なのか、それとも排除されるべき「異物」なのかという問いは、作品理解の本質的部分と言える。原作者コンラッドは「異物クルツ」に20世紀的西欧社会の矛盾と限界を体現させつつも、文化を持って自然を征服するクルツの姿は西洋の伝統的な理想の英雄像とも一時的に重ねられる。一方で『地獄の黙示録』のカーツ大佐には、『闇の奥』で描かれるクルツの二面性に加えて、「王様の虚無」という視点も加わっている。立花隆が指摘したように『地獄の黙示録』のカーツ大佐は、王様になっても「虚ろでしかなかった」ことに絶望するトリックスターのような役割を課せられた。
そして『キングコング 髑髏島の巨神』では、『闇の奥』的な「英雄か異物か」という問いを抱えつつも、髑髏島でたった一人の王様となったコングの虚無と絶望さえも描いている。そして髑髏島の「闇」とはキングコングの心中の反映でもある。劇中で繰り返し登場する太陽と瞳が同質化していくシークエンスを通して、髑髏島とキングコングそして人間たちの「闇」は溶け合っていく。
『地獄の黙示録』でのサーフィンのために村をナパームで焼き払うシーンと『キングコング 髑髏島の巨神』での調査という名目で爆弾を撒き散らすシーンはいずれも列強による異常な未開支配の方法として描写されるが、実のところ爆弾が落とされているのは未知なる大地ではなく、そこに暮らす者たちの生活の上でもある。この決して難解ではなく当たり前のように思える事実でさえも、異文化との暴力的遭遇という事態の前では簡単に忘れ去られてきたことは、世界史のみならず日本史の授業でも教えてくれる。
その意味で19世紀のコンゴも1960年代から70年代前半までのベトナムも、異なる文化同士の衝突によって「闇の奥」が現れてしまった事例と言える。そして21世紀の今に『キングコング 髑髏島の巨神』にベトナム戦争期の「闇の奥」が再現された理由とは、今日でも我々は同様の「闇の奥」と世界中で直面しているからだろう。最新の技術で世界中の神秘が丸裸にされる時代であっても「闇の奥」が現出し続ける理由とは、今でも世界が「未開」を抱えているからかもしれない。
「闇の奥」とは言葉も常識も銃撃さえも通用しない圧倒的な相手の存在を強制的に認識せざるを得なくなった時に出現する衝突の爪痕であるだけでなく、これまでコツコツと積み上げてきた進歩や成果が無意味となる危険性に接した時に剥き出しになる人間性の最もピュアな部分でもある。圧倒的な自然との遭遇を通して文明の限界に直面する時に、我々は自らの内部に潜んでいた「闇の奥」を実感するのだ。
そのため『キングコング 髑髏島の巨神』では人間が抱える「闇」だけでなく、同じく人間と異物と遭遇したキングコングが抱える「闇」も同様に重要なもので、おそらくは後者の闇こそが今後の展開に強く影響するのだと思う。
ではキングコングが抱える闇の奥には何が待っているのだろう。
コングは言葉を喋らないので彼が劇中で何を言いたかったのか想像するしかないのだが、『闇の奥』でクルツは「恐ろしい、恐ろしい!」という不可思議な言葉を残して絶命する。これは圧倒的な力を背景に未開を支配しつつも内と外の両方から引っ張られた結果、自我を崩壊させた男の断末魔だと解釈できる。
もちろん『キングコング 髑髏島の巨神』でコングが死ぬことはないし、自我を崩壊させることもない。
しかし次はどうだろう。髑髏島という生まれ育った安全圏での戦いは本作までで、次からはコングにとっての人間よりもさらに脅威の「異物」とも言える他の大物級怪獣との遭遇も決定している。コングがたった一人で抱える彼自身の「闇の奥」は次作でどう描かれることになるのだろうか。
怪獣傑作映画です
物語の構造上、興奮がグラデーション状に高まっていくというタイプの映画ではなく、新しい怪獣が出てくるたびシートから背中を離し前傾姿勢で注視し、人間パートに入ることで一旦落ち着き、それでもやっぱりコングと大ダコのバトルなんかにはテンションが一気に天井近くまで上がってしまうことになる。
こういったアトラクション的な娯楽映画では、途中で色々とサービスしてしまったため、本来はラストに打ち上げられるべき一番大きな花火もその頃には湿気っていて不完全燃焼のまま終わるというケースも珍しくないが、本作の場合は『ゴジラ GODZILLA』との関連を出汁にして、ラストのラストにとんでもない展開が用意されていて、最終的にはまだ心臓がドキドキした状態で劇場を出ることができる。
また本作には怪獣映画の醍醐味がぎっしり敷き詰められている。派手なバトルあり、虫けらみたいに人間は怪獣に踏み潰されたり、無残な犬死も描かれる。一方でユーモアも十分に投下されていて、最終的な人間の陽性部分をクローズアップして物語のバトンをゴジラに繋げてくれる。
ということで『キングコング 髑髏島の巨神』は怪獣映画の魅力がぎっしり詰まった傑作だった。
『キングコング 髑髏島の巨神』:
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