『人間の値打ち』のパオロ・ビルツィが精神病院から抜け出した二人の女性による逃避行を描く『歓びのトスカーナ』のレビューです。性格が正反対ながらも行き先を決めずに旅に出た2人は、お互いの秘密を共有することで次第に不思議な絆で結ばれていく。本作はイタリアのアカデミー賞と言われるダビッド・ディ・ドナテッロ賞で17部門にノミネートされ、作品賞、監督賞、主演女優賞など5部門を受賞。
2017年7月8日より全国公開。おすすめです。
映画『歓びのトスカーナ』レビュー
ある場所でしか生きることが許されない者たちの逃走劇には、それがサスペンスであれコメディであれ、常に悲劇的な物悲しさが付き纏うことになる。刑務所からの脱走。精神病院からの脱走。心無い家族からの脱走・・・・。これら多くの脱走の原因とは、自由への激しい欲求でありながら、同時に自由に見放されてもいる。なぜなら彼らの逃走とは、実のところは不自由な世界が原因なのではなく、自由に耐えることができず不自由な世界でしか生きられない彼らがそれでも過去に生きた自由を激しく希求する一瞬の夢物語であるからだ。
自由を求めながら、その自由に耐えられない者たちの逃走。故に心を病んだ者たちの逃走劇というのは、常に物悲しさが付き纏う。
おそらくは映画『歓びのトスカーナ』を観た人の多くは、ほとんど反射的に類似するいくつかの作品が思い浮かぶはずだ。
舞台はイタリアのトスカーナ。人里から少し離れば場所で心に問題を抱えた女性たちが、スタッフたちと一緒に生活している。一見すると施設のオーナーにも見えるベアトリーチェもまたその施設の住人だった。沈黙を恐れるように、有る事無い事ベラベラと話し続ける彼女もまた心に問題を抱え、外の世界ではうまく生きられない女性だった。
そしてある日、その施設に全身タトゥーで痩せ細ったドナテッラが運び込まれる。精神が不安定な彼女は、足を怪我していた。どうやら彼女がここに運ばれてきた理由も、その足の怪我と関係しているようだった。
センセーショナルに施設に登場したドナテッラを、ベアトリーチェは芸能人のスキャンダルを追いかけるパパラッチのように付き纏う。しかし彼女がどれほどお節介を焼こうが、ドナテッラは不安定なままで心を開くことはなかった。
しかし、ある日、施設の外で単純労働のアルバイトを得た二人は、その帰りに、スタッフの目を盗んで施設とは逆方向の街の中心部に向かうバスに乗り込む。
こうして二人の逃走ははじまるのだった。
このように『歓びのトスカーナ』のストーリーとは、ロードムービーというジャンルにおいては、ほとんど類型的と言ってしまっていいほどにオリジナリティに欠けている。昨今のウィキペディア的な連鎖検索を駆使すれば、古今東西を問わず物語の背景に広がるいくつもの参照を指摘できるだろう。
しかし本作における「類似性」とは、クリストファー・ノーラン監督作の批評などで探される参照痕という名の「類似性」とは全く違うものだろう。だから敢えて本作のレビューで『テルマ&ルイーズ』や『カッコーの巣の上で』『暴力脱獄』などアメリカン・ニューシネマ的作品と比較することはしない。作品内に配置された類似性の謎解きによって、テーマが補完され強化される類の作品ではないということだ。
それでも本作を語る上での「とっかかり」は欲しいので、なるべく映画から離れた場所で共鳴する部分が多い作品として絲山秋子の初期中編小説を連想した。中でも、おそらくは作者自身の経験がベースとなって「心」と「社会」のアンバランスな関係を描いた『イッツ・オンリー・トーク』や『逃亡くそたわけ』といった作品たちと本作『歓びのトスカーナ』は、日本とイタリアの国民性の違いでもビクともしない、共通性によって結ばれている。
例えば『逃亡くそたわけ』に登場する主人公の女と同伴者の男が「精神病」という大枠では共通しながらも、その逃走中お互いが当たり前に異質な存在同士であることが強調される対位的なキャラクター造形は『歓びのトスカーナ』でも同じだ。
エレガントでシックでスノッブなベアトリーチェと、パンクで浅はかで純情なドナテッラ。二人はお互いの不安定さを拠り所に一見すると仲が良さそうに見えるのだが、本質的には「出会うはずのなかった」関係だ。ベアトリーチェは病的な虚言癖の持ち主で、ドナテッラは自己破壊欲求の強い悲観者。この組み合わせは素人判断でもよくないと感じる。
しかし本作で描かれる二人の関係性とはお互いの違う個性をぶつけ合うことで徐々に理解を深めていくという一般的な友情とは根幹から違っている。お互いをぶつけ合い、一緒に共通課題をクリアすることで、その距離を急速に縮めていく物語ではない。確かに彼らが抱える課題とは「この自由な世界では生きられない」という点で共通しているように見えるが、その課題に回答がないことを誰より知っているのは彼ら本人だ。弁証法的に二人が成長したとしても、結局立ち戻る場所は同じなのだ。
自由な世界では生きられないから不自由な世界で生きているのに、そこからも逃走せずにはいられない。この行き場のない悲しい逃走理由が二人の間で反照し合い、キャラクターに陰影を与えている。
そして彼らの物悲しい逃走理由とは、その病とも深く連動している。
『イッツ・オンリー・トーク』の中でうつ病のせいで華やかしいキャリアを失った主人公女性は「精神病というやつは病気で状態が悪い上に精神病であるという事実とも立ち会わなければならない」と看過されがちなその病の本質を言い当てている。
日本でも精神病患者は長く不当な言説にさらされ続けている。精神に異常をきたした人物を分別なく「社会的脅威」とみなして隔離することを「治療」と称することは現代では表面的になくなったように見えても、その思想は障害者差別へと確実に引き継がれている。薬を飲めば精神が肉体に及ぼす影響はコントロールできるのかもしれないが、社会の深部で醸成される精神疾患者への差別に効果的な薬剤はもちろん存在しない。
劇中で半強制的に精神病院に送り返されたドナテッラに対し、そこで働く若い医師が「僕が必ず助ける」と不安定な彼女の手を優しく握るシーンがある。一見すると感動的なシーンでもある。これまで誰からも親身に対応されることのなかった彼女に向けられる温かい言葉は、彼女の精神状態を快方に向かわせるかと期待させるのだが、物語上はその医師の言葉に何ら展開力は与えられていない。医者から優しい言葉をかけられたことで、病状が劇的に良くなるなどという神話はここには描かれない。
多くの怪我や病気は一時的な不幸として社会内での治療が当たり前に施される一方で精神疾患者たちは社会から切り離された場所で隔離されることが正しい「治療」とされる。この社会通念こそが、彼女たちを最も苦しめている病巣として本作では描かれている。彼女たちの逃走とは自分の病から逃げているのではなく、自分たちを病として拒絶する社会に忘れたままの大切な物を取り戻すための行為なのだ。
映画の最後、イタリアでは2015年に精神病院を廃止する法律が発布されたことが知らされる。現在ではこれまで精神病院に収容されていた患者たちすべてが地域の担当機構で、これまでとは違った生活を送っているという。おそらくはこの措置はイタリアでも大きな議論を呼んだことだろう。そしてその多くは「精神疾患者を社会に出して本当に大丈夫なのか?」という通念に基づく反発だったはずだ。
「もし事件が発生したらどうするのか?」
「誰が責任を取るのか?」
「起こってしまってからでは遅いのではないか?」
こういった言説の多くは、社会の安全を第一義とする立場のように見えて、その実は健全な社会のためになら個人は犠牲になっても仕方ないとする前近代的な思想によって支えられている。普通の健常者が日々起こす殺人事件は議論にすらならないのに、精神疾患の疑いのある人物の事件になると、瞬く間に責任の所在探しが始まる社会をの病理とは、構造的に精神病のそれと同じなのだろう。社会を守るために冤罪を認めることと同じように、そこには筋の通った倫理や哲学、そして人間性というものが致命的に欠如している。
一方で映画『歓びのトスカーナ』には笑いとペーソスに満ち溢れている。そこに登場する狂人たちは皆驚くほどによく笑い悲しみ、欲望に素直で時によく混乱する。多くのロードムービーと同じように、本作は手放しでは喜べないハッピーエンドで幕が閉じられるのだが、冒頭で述べたように物悲しい物語でありながら、同時に喜劇でもあり、真面目なドラマでもある。狂人たちの物語でありながら、至る所から人間味が溢れ出している。いや、正しくは彼らから人間味が溢れていて当然なのだ。
『歓びのトスカーナ』が類型的なロードムービーでありながら、それを凌駕するほどの説得力を持っているのは精神疾患という健常者とは違う特殊な人々を描きながら、同時に健常だとされる社会が抱える病理を見事に表現しているからだと思う。そしてその社会の病理とは、精神病と同じくその症状の改善以上に、その事実と正面から向き合うことの方がずっと難しい。だから多くの人々はその病巣から目を逸らし、別の病理に過剰に反応する。
自らの病理を自覚できない精神病患者が他人に対して過度に攻撃的になる症状とは、現実社会を主体するなかでも起きている。『歓びのトスカーナ』の二人が精神病患者とするなら、それを過度に拒絶する社会もまた神経症的な精神疾患を抱えていると言える。
少なくともイタリア社会はその事実と向き合った。『歓びのトスカーナ』に凡庸なロードムービーにはない親密さが秘められている理由とは、誰もが例外なくその内側に抱える精神の歪みとストーリーが同じ振れ幅で共鳴しているからだろう。精神に問題がない人間などどこにも存在しないはずだから。
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