2013年1月11日にアーロン・スーワツが自殺してから一年がたった。新年の余韻が残るなか、日本ではさほど大きく報道されることのなかった彼の死は、それから一年経ち、現在のアメリカ政府の情報管理を巡る一連の不祥事に対して、強烈な示唆と皮肉になっている。
知識を特権化するな、全てを解放せよ!
2011年1月に、学術論文データベースから学術雑誌の記事をダウンロードしたとする計画的な犯行に関与したとして、アーロン・スワーツは逮捕された。そして連邦当局は余罪を含めた11の罪状で彼を起訴。求刑は35年以上の懲役刑と100万ドルの罰金だった。そしてその告訴が現実的になった2013年1月、彼は自身のアパートで首を吊った。
スワーツは優秀なプログラマーであると同時にインターネットを舞台にした活動家でもあった。彼は2008年、著作権の侵害を理由にして当局が一方的にサイトを閉鎖できる権限を認めたオンライン海賊行為防止法案SOPAの法案通過を阻止したことで一躍有名になる。
それは極めて象徴的な出来事だった。仮に30年後、社会が開かれたインターネット世界の構築に成功し、知識や教育を享受する条件が一切取り除かれたとするのなら、彼のこの行為はおそらく歴史的分水嶺として扱われるだろう。インターネットという全く新しい概念のプラットフォームを前時代的遺物の受け皿としてしか考えていない旧来のマーケットに対して、彼は新しい世代を代表して「NO」と叫んだ。
彼はインターネットを通しての社会覚醒を願っていた。一部の金持ちと権力によって管理、運営されてきた学術的な知識を一般にも開放することで、新たな社会制度の構築を目指した。言わば革命家だった。当局から起訴された主要な案件は、MITから大量の学術論文をダウンロードしたことだ。それらはスワーツにとって必要なものではなく、社会にとって必要なものだった。しかし彼は35年という馬鹿げた懲役刑の可能性にさらされしまい、その圧力に堪え兼ね自殺を選んだ。
スワーツは何を盗んだのか?
彼の死後、当局の対応には多くの批判が寄せられた。営利目的や破壊行為ではないハッキングに対して35年という求刑は、いわゆる見せしめとしか考えられなかった。そういった批判に対し当局は「盗みは盗みであり、データだろうがお金だろうが関係ない」と自己弁護した。しかしスワーツが行った違法ダウンロードで被った被害とは一体どれほどのものだったのかということは全く検証されていない。事実、被害者といえるMITは途中で告訴を取り下げていたにも関わらず、連邦当局は告訴に踏み切ったのだ。
スワーツが盗んだものはただの情報ではなく、“情報”という概念そのものだった。そして彼の目的は、一部の特権階級にのみアクセス可能な旧来の“情報”をすべて解放したうえで、社会が特定の“情報”を欲したときには自由に閲覧できる新しい“情報”への書き換えにあった。
当局はNSAを裁けるか?
NSAの盗聴問題は国家の安全保障という側面を飛び越えて個人の権利問題へと拡大している。要人の通話傍受のみならず一般の通話から世界中の携帯メールまで盗んでいたNSAは、もちろん誰からも裁かれない。それらは盗みとは表現されずに情報活動と呼ばれる。スワーツとNSAの両者を隔てるものは情報を欲する主体に権力が付随しているかの違いでしかない。
つまりは望む望まざるに関わらず、社会とは権力の情報管理のもとでしか情報への欲求を示すことができないのだ。もちろんそんなバカな話はない。権力が認めた真実のみしか存在しない社会に、自由なんてあるだろうか。
知識へのアクセスが個人の権利となる日まで
サイバーテロや機密情報流出と、奴隷的知識の解放とは本来は全く違う問題のはずだ。スワーツはアメリカの安全保障を揺るがしたかった訳ではないことは明白で、彼が解放したかったのはあくまで囲われた知識のみだった。それなのになぜ彼が35年と言う罪を背負わなければならなかったのか、当局には今だからこそ、説明責任がある。
もちろん全ての知識が解放された社会が、今より優れたものになるという確証はどこにもない。それでもスワーツを死に追いやったように、権力が社会に対して根拠なき罪をかぶせることは確実に難しくなるはずだ。
アーロン・スワーツは恣意的に選別された情報や知識が時には危険なものにもなりえるを知っていた。そのことは我々が溢れる情報と接するときに往々にして忘れがちだが、実は非常に重要なことでもある。彼の死はそのことを思い起こさせてくれる。
そしてどうやら知識は解放されることを望んでいるようだ。
生きていればまだ27歳。若過ぎる殉教者だ。
(2014年1月20日)
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