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侯孝賢(ホウ・シャオシェン)監督作『冬冬(トントン)の夏休み』レビュー

侯孝賢(ホウ・シャオシェン)監督の『冬冬の夏休み』(1984)のレビューです。時代と国境を越えた、体験としてのノスタルジーを描いた名作。台湾の巨匠の80年代を代表する作品がデジタル・リマスター版として2016年5月21日より全国順次公開。

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『冬冬(トントン)の夏休み』

日本公開2016年5月21日(デジタルリマスター版)/台湾/98分

監督:侯孝賢(ホウ・シャオシェン)

脚本:侯孝賢(ホウ・シャオシェン)、朱天文(チュー・ティエンウェン)

出演:王啓光(ワン・チークァン)、李淑楨(リー・ジュジェン)

レビュー

「ノスタルジー」という言葉は、ギリシア語の「nostos/帰郷」と「algos/痛み」を合わせた言葉で、本来は「異国の地から故郷を懐かしむことの痛み」、つまりは故郷に帰りたくても帰れない心情を示した言葉とされる。ヨーロッパが激変した18世紀ごろの、異国への遠征を強いられる兵士たちに見られた精神の病理として「ノスタルジー」という概念は誕生したという。

そこから転じ、「ノスタルジー」という言葉は現在では「故郷を懐かしむ」ことと、「過去を懐かしむ」ことの二つの意味を持つことになった。戦争とも離れ、異国にいたとしても飛行機で簡単に故郷に帰ることができる現在の日本では、異国から「故郷を懐かしむ」ことはあってもそれが切実な痛みとなるケースは稀で、後者の意味の方が強いかもしれない。

そして台湾の巨匠・侯孝賢(ホウ・シャオシェン)監督の1984年の作品『冬冬(トントン)の夏休み』は、台湾の田舎を舞台にした少年・冬冬(トントン)の一夏の思い出を描いた「ノスタルジー」な映画だった。過ぎ去った過去への懐かしみとともに、そもそも存在しない幻の故郷への懐かしさと痛みが想起させられる、見るものの心を静かに掻き毟るような作品だ。

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「仰げば尊し」を歌い小学校を卒業した冬冬(トントン)は妹の婷婷(ティンティン)とともに都会の台北から祖父母が暮らす田舎で夏休みを過ごすために両親と別れる。母親が病気のため入院中で、田舎でふたりの面倒を見てもらうためだ。若い叔父に連れられ電車に乗って田舎に向かう冬冬(トントン)は(ティンティン)は途中でその叔父とはぐれてしまうも、目的の駅に到着する。

都会から来た二人の子供の目を通して描かれる、地元の少年たちとの交流、キラキラした川、叔父の結婚、兄妹けんか、知的障害の女との出会い、強盗、母の病状、、、、。

それら子供の目から見た、境界が不確かな日常と非日常の出来事が、出会いと別れという大きな一夏の思い出のなかで過ぎていく。言うなれば「ハロー・アンド・グッバイ」、ただそれだけの映画でもあるのだが、そこには完璧な物語としての魅力とは全く別の、まるで「自分の物語」だと錯覚してしまうような感覚が常につきまとってくる。異国が舞台で、一見すると具体的な出来事をただ羅列しただけのはずなのに、それが遠い過去に自分が経験した夏休みであり、画面に映される名もなき少年たちのなかに自分が紛れているような感覚さえ覚えるほどの、奇妙な懐かしさに溢れている。

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あらすじからも分かるように本作は『となりのトトロ』とよく似ている。正確には『トトロ』(1988)が『冬冬(トントン)の夏休み』(1984)に似ているのだが、表面的なストーリー部分だけでなく、大人からの視点をできるだけ排し、子供の眼からみた世界の奇妙さと残酷さを余計な装飾なしに描くという意味でも両者は精神的に深く結びついている。

映画の序盤、列車で田舎に到着した冬冬(トントン)は妹の婷婷(ティンティン)は列車に乗り遅れた叔父を待つため駅前でラジコンのおもちゃで時間を潰している。そこに川で獲れた亀を手にした地元の少年たちが現れる。都会育ちの冬冬(トントン)にとっては亀が珍しく、田舎の少年たちにとっては冬冬(トントン)のラジコンが珍しい。そして両者は言葉もなく簡単に仲良くなる。何の前兆もなければ説明もなく、冬冬(トントン)は地元の子供たちにグループに混じっていく。こういった理由なき子供世界の秩序の描き方は、『となりのトトロ』でも描かれた少女たちと森の不思議な生き物との触れ合いにも通じる。

簡単に地元の少年たちと仲良くなった冬冬(トントン)とは対照的に、妹の婷婷(ティンティン)は仲間はずれにされて子供ながらの孤独を味わうのだが、そんな彼女を救うのが知的障害を患うひとりの女だった。

しかし老いた父親と二人暮らしのその知的障害を持った女は、村の雀売りの男の子供を身ごもってしまう。村の医者でもある冬冬(トントン)の祖父は中絶を勧めるが、女の父親は子供を産むことで女が普通になるかもしれないと思い、その忠告を拒否する。もちろんまだ子供の冬冬(トントン)や婷婷(ティンティン)とって、この出来事の意味は理解していない。大人からすれば残酷な出来事も、彼らにとっては川で取れた亀や、道端で目撃した強盗たちの姿と大差ない。

そして本作は二人の子供の視点で語られるため、そんな残酷な出来事でさえもただ淡々と描いているだけの印象を受けるのだが、その内部とは幻想と日常の区別が曖昧な彼らの視座からもたらされていて、まるで夢のようなのだ。

説明や意図を排した状況描写の連続は、夢の映像と似ている。夢を見ている時、その出来事の意味を理解しようとする力は眠り続け、信じられないような出来事でさえもただ許容した結果、目が覚めた時になって初めてその奇妙さに気がつくことになる。同じ作用がこの『冬冬(トントン)の夏休み』にも働いている。鑑賞している間は夢を見ているような感覚で冬冬(トントン)の眼を通し台湾の田舎の風景に連れ出される。しかも日本人にとっては懐かしい風景が広がっていて、クレオール的な望郷の念まで刺激される。冒頭の「仰げば尊し」や「赤とんぼ」のメロディを知る日本人の我々にとって本作は特別な意味さえ生まれるだろう。

映画においてノスタルジーを喚起させることは難しくない。過ぎ去った時間の美点のみをことさら強調し、「昔はよかった」という感想を力技で抱かせればそれでノスタルジー映画は完成する。でも実際には日本のどの三丁目にも夕日が落ちなかったように、それは現実とまったく遮断されたただのファンタジーでしかない。いや、ファンタジーにすらなれないまがい物だ。

本作で描かれる風景とはそもそも日本ではない。それでもその風景を懐かしみ、もう二度と戻らない時間の美しさに胸をかきむしられるように思うのは、幻想と日常を地続きで感受していたあの頃の、もう二度と手にすることは感性への惜しみと、自分の記憶をどれだけ探しても決して見つかることのない幻想のなかの故郷が、そこに同時に描かれているからだろう。

だからこそどれだけ時代が流れ、国境を跨ごうとも、本作の魅力は損なわれない。そもそもどこにも存在しておらず、それでいてすべての子供たちの視野のなかにだけは存在する風景だからこそ、この「ノスタルジー」には価値があるのだと思う。

『冬冬(トントン)の夏休み』:

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冬冬の夏休み
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