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映画レビュー|『クリード チャンプを継ぐ男』

シルベスター・スタローン主演のボクシング映画「ロッキー」シリーズの新たな一章『クリード チャンプを継ぐ男』のレビューです。ロッキーのライバルで親友アポロの忘れ形見とロッキーが目指すチャンプへの道。監督は『フルートベル駅で』のライアン・クーグラー。そして主役アドニスを演じるのはマイケル・B・ジョーダン。ハンカチと腕立て伏せの準備を。

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『クリード チャンプを継ぐ男/Creed』

全米公開2015年11月25日/日本公開2015年12月23日/アメリカ/ドラマ映画/133分

監督:ライアン・クーグラー

脚本:ライアン・クーグラー、アーロン・コヴィントン

出演:マイケル・B・ジョーダン、シルヴェスター・スタローン、テッサ・トンプソン、グレアム・マクタヴィッシュ他

あらすじ

自分が生まれる前に死んでしまったため、父アポロ・クリードについて良く知らないまま育ったアドニスだったが、彼には父から受け継いだボクシングの才能があった。亡き父が伝説的な戦いを繰り広げたフィラデルフィアの地に降り立ったアドニスは、父と死闘を繰り広げた男、ロッキー・バルボアにトレーナーになってほしいと頼む。ボクシングから身を引いていたロッキーは、アドニスの中にアポロと同じ強さを見出し、トレーナー役を引き受ける。

引用:eiga.com/movie/82844/


レビュー まだ誰も燃え尽きてはいない:

沢木耕太郎の『一瞬の夏』は、才能に恵まれたボクサー、カシアス内藤が自身の弱さと葛藤しながらも一度は諦めたリングに「燃え尽きる」ために再び舞い戻るまでを描いた傑作ノンフィクションだ。「私ノンフィクション」と評され、作者自身が取材対象に深く関与していく手法はトルーマン・カポーティの『冷血』やノーマン・メイラーを彷彿とさせる。ありのままの事実を書き記す、いわゆるノンフィクションとは違い、取材対象に対する著者自身の迷いや諦め、そして自己投影までも作品に反映させていく。『一瞬の夏』では沢木自身の迷いや熱望がカシアス内藤に重ね合わされていく。

『一瞬の夏』には『クレイになれなかった男』という前日譚がある。文字通りリングで灰になった『あしたのジョー』の矢吹丈、そして度重なるトラブルを経験しながらも観客を熱狂させたモハメド・アリ(本名カシアス・クレイ)、この二人のボクサーの姿を理想形として、黒人米兵と日本人女性との間に生まれた天才ボクサー、カシアス内藤が「燃え尽きる」ことなく、ジョーにもアリにもなれない姿を克明に写している。

誰もが「燃え尽きる」ように人生を生きられるわけではない。情熱や努力だけでなく、そこには生まれもった才能や境遇も必要となる。そして沢木の目にはカシアス内藤はそれら全てを持っているように映った。しかしカシアスは「燃え尽きる」ことはなかった。沢木とカシアス内藤は「燃え尽きる」ことへの憧れを共有しながらも、いつか「燃え尽きる」ことを望み続けるままに物語は唐突に閉じていく。

そして今更ながら『クリード チャンプを継ぐ男』はシルベスター・スタローンの出世作である『ロッキー』と深く連動する作品である。しがないチンピラボクサーだったロッキーが名トレーナーと出会い、愛する女性に自分という存在の価値を証明するために、現役ヘビー級チャンピオンのアポロ・クリードとの無謀な戦いに向かう。ただの咬ませ犬でしかなかったロッキーは、リング上で何度倒されても立ち上がる。ロッキーにとってアポロに勝つことは目的ではなかった。ロッキーが戦っていたのは鏡に映る自分であり、勝敗とは自分自身との戦いに委ねられていた。だから最終ラウンドのゴングが鳴り終わった時、勝敗に関係なくロッキーは両手を空高く掲げる。

『クリード チャンプを継ぐ男』は『ロッキー』に登場した伝説のチャンピオン、アポロ・クリードの唯一の息子であるアドニス・”クリード”・ジョンソンが、一度も会ったことのない父親の影を追うように、同時にそれを振り払うようにしてチャンプへの道を歩みだす過程を描いている。父アポロ・クリードは『ロッキー4/炎の友情』でソ連のボクサーとの戦いのなかでリング上で帰らぬ人となっている。間接的ではあれロッキーはアポロの死に深く関与していた。そのため突然現れたアポロの忘れ形見からのトレーナーになってくれ、という願いも無下にはできない。そしてアドニスに偉大なチャンプだった父アポロと同じ風景を見せるためロッキーは再びリングにトレーナーとして帰って来る。

『ロッキー』シリーズはこれまで6作品作られており、その度にロッキーはリングに帰って来た。リングでの戦いには満足したはずなのに、ロッキーは帰って来る。繰り返されるシリーズ化に途中からはほとんど伝統芸能のような扱いを受けるようになる本シリーズだが、やはり1作目の『ロッキー』が全てだと言える。「燃え尽きる」場所を探してふらふらしていたロッキーが、たった一度のチャンスに人生の全てを賭ける。ボクシングに関する知識量に関係なく、今なおこの40年前の映画に熱いものを禁じ得ないのは、「燃え尽きる」場所を見出せずにいる我われ観客の諦めや願いがロッキーに投影されているからに他ならない。リングに這いつくばり、それでも立ち上がり、一見すると意味のない戦いに命をすり減らすロッキーの姿は、この日常のなかで「燃え尽きる」ことへの欲求ばかりを持て余したまま生きる我われの望みそのものなのだ。沢木耕太郎にとってのカシアス内藤がそうだったように、ロッキーとは我われの願いであり、我われの「いつか」でもあった。

本作の主役アドニスは父親の存在もしらないままに問題児として成長し、やがて数奇な運命の糸に手繰り寄せられる形でアポロの未亡人に引き取られていく。裕福な西海岸の家庭のなかで何不自由のない生活を送りつつ、それでも自分という存在の本来の居場所が豪奢なオフィスのなかにないことをはっきりと自覚している。自分が「燃え尽きる」のはここではない。ここにいてはその「いつか」はやってこない。

そしてアドニスは父親の残像にすがるように、ロッキーが暮らすフィラデルフィアに流れ着く。

言い忘れていたが『一瞬の夏』には、カシアス内藤と沢木以外にもうひとり重要な人物が登場する。カシアス内藤の才能を高く評価し、名トレーナーとして知られるエディ・タウンゼントだ。これまで多くの日本人チャンピオンを育ててきたエディも沢木と同じようにカシアス内藤に強く期待していた。カシアスがリングで「燃え尽きる」ことができるように、ハッパをかけ厳しいトレーニングを課していく。『一瞬の夏』のなかでエディ・タウンゼントの存在は思いの外大きい。ともすれば誰もが願う帰結や理想だけを追い求めがちになりそうな若き作家とボクサーの物語も、エディが介在することでそれは世界チャンピオンという途方もない高みへと向かう過酷な現実であることが知らされる。夢や憧れだけで「燃え尽きる」ことができるわけではない。沢木やカシアスと、エディとの最大の違いとは、彼はすでに何人もの「燃え尽る」ことができなかったボクサーを見てきたことだ。

そして本作におけるロッキーとはエディ・タウンゼントでもある。チャンピオンになることの厳しさを誰よりも知り、アドニスに厳しくも愛情を持って接するロッキーとは、カシアスや沢木にとってのエディそのものだ。そして1988年エディ・タウンゼントは癌と戦いながら最後の教え子である井岡弘樹の初防衛戦の開始直前に意識を失い、その後井岡の初防衛成功の知らせを受けてこの世を去った。エディは文字通りリングで「燃え尽きる」ことが許された稀有なトレーナーだった。

では果たしてロッキーはエディのようにリングで「燃え尽きる」ことができたのだろうか。その判断は映画を見なければ下せない。そして見た人の中でもきっと回答が分かれるはずだ。

アドニスはどうだろうか。我流でボクシングをはじめるも並外れた才能を持つ彼はロッキーというトレーナーと出会うことでその可能性を一気に開花させる。そしてとうとう世界戦のリングに立つことになる。それは1作目の『ロッキー』と同じように、咬ませ犬として、アポロの息子という話題性を優先させたマッチメイキングだった。しかしロッキーがそうだったようにアドニスにしてもただ世界チャンピオンになることを求めていたのではない。繰り返しとなるが「燃え尽きる」ためなのだ。アドニス・ジョンソンという育ての母の名前に固執したアドニスは、世界戦に挑むためにクリードという父の名を背負うことを決心する。リングで燃え尽きる機会を失ったままこの世を去った父アポロのため、そしてその息子としての自分のためにアドニスは無謀と思われた戦いへと挑んでいく。

また『クレイになれなかった男』のなかにはカシアス内藤が混血という理由だけでカシアスという名前を名乗ることにエディは激しく反対したというエピソードが紹介される。ロッキーもまたアポロの幻影に自分を失うアドニスにアポロ・クリードという大きすぎる存在を一人で背負う必要はないと諭す。父親の幻影に囚われたアドニスもまた混血という出自に悩み、弱さを抱えていたカシアス内藤と深い部分で重なっていく。

そしてもちろん本作における沢木耕太郎とはこれまで『ロッキー』を見続けていた我われでもある。いつか燃え尽きたい。その願いをロッキーに託し、そして本作ではアドニスにも託す我われこそがこの物語を最も間近で見てきた観客であり語り手でもある。

『クリード チャンプを継ぐ男』は戦いの終わりによって幕が閉じるのではない。フィラデルフィア美術館前に伸びる通称ロッキー・ステップを登りきることで「燃え尽きる」ことができるのではない。それなら僕はもう燃え尽きているはずだ。『ロッキー』を見ればわかるが、ロッキー・ステップとは「燃え尽きる」ことへの激しい欲求そのものだ。フィラデルフィアを訪れた人の多くがロッキー・ステップを駆け上がり拳を空に突き出すのは、その燃え尽きる「いつか」を夢見ているからだ。だからロッキーもアドニスもまだ燃え尽きてはない。ロッキーもアドニスも「いつか」を求め続けているはずだ。

2015年12年14日、日本スーパーフェザー級王者の内藤律樹は偶然のバッティングもあり判定によって4度目の王座防衛に失敗した。高校時代にアマチュア三冠を達成した将来有望なこのボクサーの父は、言わずもがなカシアス内藤である。今回は日本チャンピオン防衛に失敗したが、悲観にくれる必要はどこにもない。無敗のまま東洋チャンピオンになり、その後世界戦前哨戦で初黒星を喫した父よりも早く弱さが露呈しただけだ。負けることは早ければ早いほどいい。

『一瞬の夏』が今でも続いているように、我われが「燃え尽きる」まで『ロッキー』も続いていくのだ。

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ということで『クリード チャンプを継ぐ男』のレビューでした。オープニングで一泣きして、ラストではボロボロでした。このレビューでは『一瞬の夏』を絡めて書きましたが、例えば監督のライアン・クーグラーの黒人としての『ロッキー』への返答としても書けそうです。本編で最高に盛り上がるシーンからは、マイノリティーからブルース・リーが愛された理由と同じように、ロッキーも人種を超えて人々の憧れだったことがよくわかります。オープンニングでガツンとチンに重い一発を喰らった後はもうヨレヨレのままエンディングまで耐え続けるのがやっとだった。問答無用でオススメです。以上。

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クリード チャンプを継ぐ男
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COMMENTS & TRACKBACKS

  • Comments ( 2 )
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  1. 素晴らしいレビューですね。
    沢木耕太郎は「テロルの夏」しか読んだことがないのですが、これも読んでみたいと思います。
    映画は男泣きですね。中盤の初戦のシーンのワンカット撮影、後半のマウンテンバイク(?)集団と
    共に勝どきをあげるシーンなど、印象的なシーンも多かったです。

    • コメントありがとうございます。
      本当に男泣き映画ですね。
      あとボクシングのワンカット撮影も、対戦相手目線で撮られていると思ったらそのままリングをぐるぐる回り出したりと、メイキングも見てみてみたくなりました。
      年の瀬にいい映画を見れました。

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