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映画レビュー|『禁じられた歌声/Timbuktu』

西アフリカ、マリ共和国の古都ティンブクトゥを舞台に、イスラム過激派の弾圧に翻弄される家族を描き、フランスのセザール賞で最優秀作品賞を含む7部門を獲得した『禁じられた歌声/Timbuktu』のレビュー。劇場公開は2015年12月26日。

Timbuktu

『禁じられた歌声/Timbuktu』

全仏公開2014年12月10日/日本公開2105年12月26日/フランス・モーリタニア/ドラマ映画/96分

監督:アブデラマン・シサコ

脚本:アブデラマン・シサコ、ケッセン・タール

出演:イブラヒム・アメド・アカ・ピノ、トゥルゥ・キキ、アベル・ジャフリ他

あらすじ

ティンブクトゥ近郊の街で暮らす音楽好きの男性キダーンは、妻サティマや娘トーヤ、12歳の羊飼いイッサンと共に幸せな毎日を送っていた。ところがある日、イスラム過激派が街を占拠し、住人たちは音楽もタバコもサッカーも禁じられてしまう。住人の中にはささやかな抵抗をする者もいたが、キダーン一家は混乱を避けてティンブクトゥに避難する。しかし、ある漁師がキダーンの牛を殺したのをきっかけに、彼らの運命は思いがけない方向へと転がっていく。

引用:eiga.com/movie/81885/


レビュー

信心深き人々の罪:

2015年11月13日パリで発生した同時多発テロでは130名もの一般人がイスラム過激派の手によって殺害された。世界中を悲しみと怒りに包んだこの事件後、十分に予想されたことだが、やはりイスラム 教徒への風当たりは一層強いものとなった。それは難民が急増したヨーロッパだけでなく、アメリカでも同様で、SNSやインターネット上にはイスラム教徒への憎悪が多く書き込まれ、挙句には共和党の大統領候補までが、「事件の全貌が明らかになるまでは」というエクスキューズを最後に加えながらも、「全イスラム教徒」のアメリカへの入国を拒否するように訴え、支持者はそれを大歓声で歓迎した。

一方パリでのテロの翌日、アメリカの作家スティーブン・キングは「パリのテロを理由にイスラム教徒を非難することは、差別集団ウェストボロ教会を理由に全キリスト教徒を非難することと等しい」とツイッター上で、その後に発生するだろうイスラム教徒への憎悪を牽制した。ここで言及されるウェストボロ教会とはカンザス州に存在する自称バプティスト集団で、過激な思想と行動が度々メディアを賑わせる。「God Hates Fags/神様はホモを憎んでいる」というスローガンを所構わず吹聴し、イラクで亡くなった兵士の葬儀にわざわさ駆けつけては「ホモの国アメリカのために米兵を殺していただき感謝します」と叫び被害者遺族の心情を弄んでは、自らを「最も天国に近い教会」と言って憚らない。銃乱射で人が殺されるのも、炭鉱事故も、イラク戦争も、彼らからすればアメリカ国民が「信心を忘れた」からという理由らしい。

スティーブン・キングがわざわざウェストボロ教団を引き合いにだしテロ後の冷静を求めた理由とは、その集団や行為が仮に教義の一部の極端な解釈によっては肯定できるとしても、その宗教全体の一部と混同されるべきではないからだ。実際に同性愛を批判する一節が存在する聖書のレビ記を拠り所にウェストボロ教会の行為を肯定したところで、同様にレビ記に記載されている「人は2種類の糸で編んだ服を召してはいけない」という箇所には無関心な彼らの存在とはキリスト教的に肯定されるとは到底言えない。

問題は宗教にあるのではなく、自分もまた宗教的に逸脱した存在であるという可能性や現実を全く考慮しない、その「不信心」さにあるのだ。

本作『禁じられた歌声』は西アフリカのマリ共和国を舞台にしている。サハラ交易の拠点として西アフリカでも随一の歴史と文化を保有するマリもまた近年のイスラム過激派の影響を受けて治安は悪化の一途を辿り、先日も首都バマコのホテルが武装グループに襲撃され多数の死者を出している。北部の広大なサハラ地帯がアルジェリアやリビアなどの隣国から逃れてくる過激派の活動拠点となっているのだ。

本来は穏やかでそれぞれの生活に根ざしたイスラムへの信仰が認められていたこの地域にも銃を手にした過激派が押し寄せ、音楽を禁止し、タバコを取り上げ、女たちにはベイルをかぶり手袋をすることを義務付ける。一方で彼らは神聖なはずの祈りの場にさえ銃を持って立ち入ってくる。教義では禁止されている行為も自らを「ジーハーディスト」と称し肯定する。なお今では聖戦と訳される「ジハード」とはクルアーンに則れば本来は「努力」という意味であり、そこから何でも許される「聖戦」という意味に行き着くまでにはいくつかの条件を経過しなければならない。

マリの古都ティンブクトゥ近郊の村を占領した過激派グループだが、村人たちは簡単に彼らには屈しない。宗教的指導者はイスラムの教えをもとに武装化する彼らを諌め、地元の女たちも彼らの高圧的な態度にクルアーンからの引用で反論する。それでも支配は徐々に暴力的なものになっていき人々は住み慣れた村から離れ、若者たちにもまた過去の穏やかな生活を「罪にまみれていた」と告白することを強いるようになる。

物語は過激派と村人たちの静かな対立から始まり、やがてはその過激思想が産み出した閉塞感のなか、流れる必要のなかった血が流され、そこになかったはずの憎しみや悲しみが連鎖的に増幅していく過程を詩情豊かに描いている。そしてその背景として、偏狭にまみれた過激派の教義が生み出す生活の閉塞感と無機質さ、そして哀れさが描かれている。サッカーを禁止しながらもサッカー談義に耽る過激派。そしてサッカーを取り上げられたために実際のボールを使わず、そこにボールがあるものとしてサッカーに興じる人々。そこではまるでチャップリンの皮肉のような光景が真面目に行われている。けれどもユーモアも笑いもない。あるのは物悲しい滑稽さだけだ。

本作で描かれる閉塞感や滑稽さとは、西アフリカの辺境に限ったことではなく、残念ながらヨーロッパにもアメリカにもそして日本にも静かに浸透する息苦しさと全く同種だと言える。笑いたいものを笑い、歌いたい歌を歌い、愛したい人を愛すという人間の自由を「不信心」を理由に抑圧する不自由さとは、言い換えるのなら、「罪深き人間としての自分」を決して肯定しようとしない 「不信心」に他ならない。どの宗教でも人間は愚かで罪深いと諌めているにもかかわらず、自分自身にはそれを当てはめようとしない「不信心」さこそが問題の根本なのだ。「信心」という表現が宗教じみていると感じるのなら、それを「道徳」や「愛国」や「公平」と置き換えてもいい。そして忘れてはならないのは、そういった心地よく分かりやすい絶対的正義を代弁する言葉たちとは、神様だけに宿るもので、実際はどこにも存在しない。あなたにも、僕にも、彼らにも絶対に宿ってはいない。人間が地球を生み出したのではないように、それは明らかだ。

「神」を自分の味方だと思い込んだとき、人はどこまでも残酷で滑稽になれる。「道徳」や「愛国」や「公平」も然りで、そんなものを振りかざしたところでこの息苦しさから解放されることはない。そしてそれは最早イスラム教の問題ですらなく、他人を否定することで自分を肯定できると思い込む流行病のように世界中に拡散してしまっている。

本作にはひとりの精神を病んだ女が登場する。彼女だけは過激派からの抑圧から免れ自由に生きることが許されている。服を着飾り、歌を歌い、踊りを踊ることが許される。その存在は非常に象徴的だ。この世界において人間らしい生活が保障されるには、狂わなければならない。

本作にはわかりやすい回答は用意されていない。イスラム過激派でさえも決して単純で確固たる悪としては描かれず、絶望的な結末さえもある意味においては当然の帰結とする こともできる。

それでも唯一、本当に狂っているのが彼女ではないことだけは確かだ。

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ということで『禁じられた歌声』のレビューでした。フランスのアカデミー賞とも称されるセザール賞7部門を受賞し、悲しい予言のようにテロ後のパリの閉塞感との類似性を描き出した、何とも物悲しい作品です。本作の監督は過去にマリで育ったイスラム教徒ということで、過激派と冷静に対話を行うシーンには、イスラム教徒としての立場が強く反映されていそうです。そしてもともとはマリの現状をドキュメンタリーとして製作しようとしたのが本作の出発点ということで余計な演出がなく、そのために劇中の状況がどこにでもある日常のように感じられて、問題の普遍性をしっかりと描き切っています。本作がフランスで公開される時に「フィガロ」誌は「我々のパルムドール」と評しましたが、果たしてその言葉は現在のパリでどこまで受け入れられるのか複雑になります。日本では12月26日よりユーロスペースほかで全国公開が開始されます。おすすめです。以上。

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