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映画ジャーナル<ビーグル・ザ・ムービー>

カンボジア映画『シアター・プノンペン』レビュー

Last Reel Film Poster

『シアター・プノンペン/The Last Reel』

日本公開2016年7月2日/カンボジア映画/106分

監督:ソト・クォーリーカー

脚本:イアン・マスターズ

出演:マー・リネット、ソク・ソトゥン、トゥン・ソーピー他

あらすじ

カンボジアの首都プノンペンに暮す女子大生ソポンは、ある日、映画館で1970年代のポル・ポト政権下に作られた古い映画の存在と、そこに若き日の母が出演していたという事実を知る。しかし、母は自分が女優であったことを全く語ろうとしない。その映画をどうしても見たいと思うソボンは映画のフィルムを探し始め、ポル・ポト時代に蹂躙された母国の映画史を発掘していくことになる。

参照:eiga.com/movie/81114/

レビュー

これまでもカンボジアのクメール・ルージュの虐殺を題材として映画は作られており、有名な作品では『キリング・フィールド』や『地雷を踏んだらサヨウナラ』など、歴史上最悪とも言われる同民族による虐殺事件の一部を垣間見ることができる。それらは主に当時の過酷を極めた実情を伝えることを目的とした作品たちと言える。

東南アジアでもベトナムとタイという影響力のある国に挟まれ、ベトナム戦争では大国の思惑に翻弄されたことからもカンボジアは外からは見えない忘れ去られた国だった。実際にポル・ポト政権下での虐殺を西側諸国は長く半信半疑で眺めていた。生還者たちが語る言葉の多くはあまりにも現実離れしていたためだ。誰だって「メガネをかけていたら射殺」とか「小学生が外科手術を執刀している」などという言葉をどこまでフラットに信じられるかと思えば難しい。しかしこれらは本当に起きたことだった。海外に行ったことがあったり、外国語を話せれば即アウトの世界。フランス文化の影響を受けて育まれたクメール文化は、70年代半ばのクメール・ルージュの台頭でほとんどが破壊され、そして文字通りカンボジアから知性は完全に排除された。

本作は前述した『キリング・フィールド』とは違った目的で作られている。当時何が起きていたのか、を描く作品ではなく、当時起きたことが今どのように継承されているのか、を問いかけるような作品になっている。そしてもっとも重要なこととして、それをカンボジア人の手によって作ろうとしていることだ。

近年カンボジアではクメール・ルージュを知らない世代が増えている。この表現は体験の比喩ではなく、本当に知らない若者が決して少なくないらしい。実は私自身、以前カンボジアからの研修生に同行する機会があったのだがその時にはかなり驚いた。彼は大学生で英語にも堪能だったが、クメール・ルージュの虐殺について「たくさん人が死んだ」くらいの認識しかなかった。どういった経緯で歴史上最悪とも言われた虐殺が母国で行われたのか、ほとんど知らないという。

この現状は、戦争を知らない日本の若者世代の問題と同一視されるものではない。カンボジアの場合は特殊すぎる。隣人同士が殺しあった結果、たった数年の間に総人口の20パーセント以上を失ったのだ。つまり生き残った人々の多くは、隣人を殺したか、隣人に殺されかけた人々なのだ。誰もが語りたくなく、聞きたくもない過去として忘れ去られることを待っているような環境がカンボジアにはあった。

それから30年以上たって、新しい世代が台頭している。しかも母国の悲劇を知らないままに。こういった現状の中、クレイアニメによる『消えた画 クメール・ルージュの真実』が2014年に公開された。そして本作『シアター・プノンペン』は、現代のプノンペンを描きつつもそこに見え隠れする忘れ去られた過去を若者たちの手で決着させようという物語になっていた。

これまでプロデューサーとして映画に関わっていたソト・クォーリーカーの初監督作品であり、劇中でも描かれる最小限の撮影機材だけで撮られたようなシンプルな作品に仕上がっている。ポル・ポトは娯楽を禁じたため映画も迫害対象となっていた。そんな時代を静かに生き抜いた古い映画館と支配人、そして驚愕の真実。古びた映画館を舞台に、失われた映画の制作を通してカンボジアの新世代と旧世代が互いを理解しようとする、骨太のドラマ映画。

それでも全体としては稚拙、というか冗長な印象を受けた。特に脚本に多くの要素が積み込まれた結果それらを捌くことができず、退屈に感じる時間帯が点在することになってしまった。100分少しの映画だがテンポが悪くて実際よりも長く感じてしまう。

しかしテーマは抜群だ。あらすじを読むに『ニュー・シネマ・パラダイス』のような作品を想像してしまうかもしれないが、当たり前だが似ているところもあれば違うところもある。少なくとも映画愛を歌うより以前に生命賛歌から始める必要がカンボジアにはあった。自分たちが存在するという意味を、親の世代が経験した大虐殺の事実を学びながら探り出そうとする若者たち。それもまた苦行だ。なぜなら自分の親もまた人殺しである可能性があるし、同様に殺されかけた経験もあることを意味している。そして確実なのは生き残っていた親たちは大切な人を奪われた経験を持っているということ。一方で若者たちはその悲劇を実体験としてはもちろん知らない。それでもその悲劇は現代にも確実に影を落としている。

テーマの根幹にはあるのは「赦し」の是非だ。被害者と加害者の和解とはどのように達せられるのか。過去を写した映画だからこそ和解の糸口となり得る。映画制作を通して明かされる真実には思わず唸ってしまった。

カンボジア映画再興の狼煙ということからも、そして歴史問題に直面する今だからこそ見る価値が大いにある一作。

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ということでカンボジア映画『シアター・プノンペン』のレビューでした。日本公開は2016年夏に決定しています。最近はアジア映画を見る機会が多いのですが、はっきりいってその大部分はハリウッドの真似事です。しかし本作には映画制作の動機が本作に携わっている全ての人に備わっていることが伝わってきます。作りたい映画というよりは作らなければならない映画という面持ちです。もちろん稚拙さは目に付きますが、テーマやストーリーは素晴らしいですので、機会があればぜひ鑑賞してみてください。おすすめです。以上。

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シアター・プノンペン
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