【映画】ジェイク・ギレンホール主演『複製された男』レビュー

ポルトガル人ノーベル文学賞作家ジョゼ・サラマーゴの原作を、『灼熱の魂』のドゥニ・ヴィルヌーブ監督がジェイク・ギレンホールを主演に迎えて映画化した『複製された男』のレビューです。本来は食い合わせのよくないはずの純文学と映画の関係を、衝撃のラストシーンで乗り切った奇作。日本公開2014年7月8日。

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・ストーリー

アダム・ベル(ジェイク・ギレンホール)は大学で歴史を教える教授で、人付き合いが苦手で、仕事が終わると家に帰り本を読む孤独な時間を過ごしている。ある日、同僚から自分に似た俳優が出演している映画を教えられたアダムは、そのビデオをレンタルする。そしてそこにはまさに自分に瓜二つの人物が写っていた。

俳優の名前はアンソニー・クレアー。自分のそっくりな存在を知ったアダムは、まるで何かに取り憑かれたようにアンソニー・クレアーの出演作を調べ上げ、彼の所属事務所を訪れたり、ストーキング行為はエスカレートする。

やがてアダムはアンソニーに電話をかけて自分の素性を明かす。そのことでアンソニーの身重の妻も自分の夫にそっくりなアダムの存在を知ることになる。

そしてとうとアダムとアンソニーはホテルの一室で向かい合う。性格も、住む世界も、趣向も、全く違う瓜二つの二人は、さらに胸に負った傷まで同じだと知る。理解不能な事態に前後不覚となったアダムはその場から逃げ去る。そして好戦的なアンソニーから、この混乱の責任を取る形で、アダムの恋人のメアリーと関係を持たせるように強要されたアダムは、その申し出を渋々受け入れることとなる。

入れ替わった二人の男。そして事態は驚愕の結末を迎える。

・感想

もし自分とそっくりと誰かが存在し、それが自分の生活へと浸食をはじめたら?

ドッペルゲンガー、コピー、クローンという“自分ではない自分”や“もうひとりの自分”というモチーフは、元来カット編集によって再現できるということから映画が得意としてきたものだ。そして多くの場合、それはミステリーやホラーの要素として扱われてきた。

本作『複製された男』はポルトガル人ノーベル賞作家の有名な原作の映画化である。カフカ的な孤独感を現在に再現したかのようなストーリーと不条理な世界観は、本来、映画化に決して向いていないはずだ。それでもこの映画はしっかりと“乗り切った”。

何の説明もなくはじまる裸体の女と蜘蛛のオープニング。物語の舞台のひとつとなる、没個性を突き詰めた故に不気味な巨大な建物。そしてオープニングの意味を考えさせられる、俳優という職業や蜘蛛。物語の設定そのものではなく、物語の隅に散りばめられた道具が物語の本質部分と深く連動しており、この映画の主題やモチーフは一体何なのか、物語が進めば進むほどに分からなくなる。そしてその観客が感じる居心地の悪さは、劇中で登場人物たちがそれぞれに感じる喪失感や孤独感とも連動している。

本作の主だった登場人物は4人で、瓜二つの二人を覗けば、それぞれのパートナーの女性だけである。そして二人の女性のうち、1人だけはパートナーに瓜二つの男が存在することを知っており、もう1人は何も知らない。この設定と驚愕のラストがどのように関わってくるのか。

この映画ほど語りたくとも語るのが難しい映画も珍しい。

海外レビューでは、映画史に残る衝撃の結末と評されもする本作だがその言葉に偽りなく、かなり驚かされる。そしてその意味やメタファーについて考え出すと止まらない。謎が謎を呼び、質問の答えが質問で返されるという行き場のない問答のなかにこそ、現代人の〈アイデンティティ・クライシス〉の全てが含まれているのかもしれない、などという大きなことまで考えたくなる映画だ。

奇才ドゥニ・ヴィルヌーブ監督は観客に問いかける。「この映画を観ているあなたは、本当にあなた自身だと言い切れますか」と。90分という映画的時間のなかで純文学的な問いかけをしっかりと成立させた、まさに奇作と呼ぶに相応しい一作です。是非、この混乱を、映画館で、見ず知らぬの誰かと共有してみてください。おすすめ作品です。

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