『スター・ウォーズ』シリーズ初のスピンオフ映画『ローグ・ワン/スター・ウォーズ・ストーリー』のレビューです。『エピソード3 シスの復讐』と『エピソード4 新たなる希望』を繋ぐ、いかにしてデス・スターの設計図は反乱軍の手に渡ったのかを描く、無名の英雄たちの物語。監督は『GODZILLA ゴジラ』のギャレス・エドワーズ。
『ローグ・ワン/スター・ウォーズ・ストーリー』
全米公開2016年12月16日/日本公開2016年12月16日/スター・ウォーズ/134分
監督:ギャレス・エドワーズ
脚本:クリス・ワイツ、トニー・ギルロイ
出演:フィリシティ・ジョーンズ、ディエゴ・ルナ、ドニー・イェン、チアン・ウェン、ベン・メンデルソーン、マッツ・ミケルセン、フォレスト・ウィテカー
レビュー
『エピソード3 シスの復讐』と『エピソード4 新たなる希望』の間に隠された「デス・スター」の設計図を巡る秘話を描く『ローグ・ワン/スター・ウォーズ・ストーリー』は、最初から成功が約束されていた訳ではない。ここで言う成功とは興行的なヒットを意味するのではなく、『エピソード3』と『エピソード4』を繋ぐという最低限のミッションに加えて、シリーズから独立した最初の『スター・ウォーズ』スピンオフ映画としての魅力を獲得することを指す。
このハードルは非常に高い。
例えば『アイアンマン』や『キャプテン・アメリカ』のMCU作品が、まだ誰も知らない白地図を自ら作り出しては埋めていくという世界観の連続性と拡張性によって、次々と名作を送り出していることとは正反対に、この『ローグ・ワン/スター・ウォーズ・ストーリー』に残されていた未明の部分はあまりに少ない。物語の発端である「なぜデス・スターの設計図が必要なのか?」という部分と、物語の終わりである「デス・スターの設計図は手に入ったのか?」という部分はいずれも知れ渡った出来事であり、主人公たちがこれまでのシリーズで触れられていない無名の存在であることからも、主人公の視点から世界を小さく把握すれば、バッドエンドにしかならないことも予め予想できる。
『スター・ウォーズ』を知っている観客からすれば、フェリシティ・ジョーンズ演じるジン・アーソをはじめとする無名の反乱軍兵士たちがミッションを成功させることは知っている。しかし全員が無傷で帰ってくることなどあり得ないことも知っているのだ。これは主要キャラクターがなかなか死なない『スター・ウォーズ』シリーズにあって、本作が外伝であることを強く示唆する一方で前後をルーカス作品に挟まれるという本作の難しい立場を象徴することになる。
物語の最初と最後はすでに存在し、登場人物たちの運命も自動的に決定している。何をどう描こうとしても、それが『スター・ウォーズ』の隙間を埋める『ローグ・ワン』である以上、物語はデッドエンドに向かってアクセルを踏みぬくことが宿命付けられている。
華々しく散ってこい。それも最高に美しく、ドラマチックに散ってこい。
ギャレス・エドワーズ監督をはじめとするスタッフに課せられたミッションとは、理不尽なものだったのかもしれない。それでも彼らは与えられた使命の重さを誰よりも理解し、逃げることなく、不可能を可能にすることが求められるミッションに取り組んだ。
全てが美しく完璧だった訳ではない。それでも劇中に登場する名もなき反乱軍兵士たちと同じように、その目的だけはやり遂げてくれた。
戦争を舞台にした冒険映画
本作にはいくつかの戦争映画の痕跡が伺える。それでも言われていたほどに『地獄の黙示録』や『プライベート・ライアン』の影響は感じなかった。戦争映画として『ローグ・ワン/スター・ウォーズ・ストーリー』を観れば、生ぬるい。それよりも本作の展開と雰囲気を伝えるには『ナバロンの要塞』が適しているだろう。
『ナバロンの要塞』は1961年公開作品で、絶海の孤島ナバロンに隠されたドイツ軍の秘密兵器の破壊を目的とする極秘任務を描いている。このミッションに集められたのは6人のプロたち。彼らはプロであるが故に、この任務から生きて帰られる保証がないことを知っている。それでも6人は数千人の仲間たちのため、そして連合国の未来のために潜入を開始する。
戦争映画というより第二次大戦を舞台にした冒険映画だ。『地獄の黙示録』や『プライベート・ライアン』のようにリアルな殺し合いはほとんど描かれず、戦争映画としては同時期の映画『史上最大の作戦』には見劣りするも、タイムリミットが迫るなか次々と難題を突破し、様々な妨害に遭遇しながらも、遂には不可能を可能にする偉業を成し遂げ、彼らは第二次大戦の語られぬ伝説となる。
『ローグ・ワン/スター・ウォーズ・ストーリー』でも6人の個性的なメンバーが集まって共通の目的のために極秘任務を遂行することから、両者はよく似ている。
デス・スター誕生に深く関わる主人公ジン・アーソ。幼少の頃から反乱軍の一員として戦うキャシアン・アンドー。元帝国軍のアンドロイドながら再プログラムされ反乱軍に加わっているK-2SO。帝国軍を裏切り反乱軍のパイロットになるホーディー・ルック。そして衛星ジェダの寺院で警護をしていた盲目の戦士チアルート・イムウェと、その友人のベイズ・マルバス。
この6人がそれぞれの知恵と経験、そして信念を総動員して、敵の軍事基地スカリフからデス・スターの設計図を盗み出そうとする。
『ローグ・ワン/スター・ウォーズ・ストーリー』が『ナバロンの要塞』をひとつのテキストとしたのは間違いないだろう。そして『ナバロンの要塞』のラストで実現困難な任務を成し遂げた時に爆発するカタルシスが、それまで一度も笑わなかった主人公の最後の笑顔に集約されるということも、両作の類似性を強く意識させる結果となった。
実際に『ローグ・ワン』は途中まで『ナバロンの要塞』的な冒険活劇として一瞬も緩まずテンポよく物語が進んでいく。本当に最高だった。そしてウルトラ・パナヴィジョンのアナモレンズで撮影された横深い映像を通して、『ナバロンの要塞』で言うところの難攻不落の絶壁である惑星破壊兵器デス・スターの巨大感を余すところなく描く。両作とも任務のスケール自体は「大砲破壊」と「設計図強奪」と決して大きくないのだが、その背後に「断崖の要塞」と「デス・スター」という物理的に巨大な壁が聳えることで、精神的な圧迫感が加わることになる。またギャレス・エドワーズ監督が『GODZILLA ゴジラ』で描いたホノルル空港でのゴジラ襲来シーンを彷彿とさせるような陰影をうまく利用した巨大感の演出はデス・スターの登場シーンでも冴え渡っていて、その桁違いの威圧感が「ほとんど不可能なミッション」という設定を裏付けるように登場人物と観客の絶望感を結びつけることになる。そしてその絶望に立ち向かうことで物語としての高揚感は醸成されていく。
しかし『ローグ・ワン』は物語が進むことで、この冒険活劇としての高揚感を徐々に放棄しなければならなくなる。監督の意図や脚本の欠点とかではなく、必然としてそうならざるを得ない。映画の最後に主人公が「まさか成功するとはね」と笑うとジョン・ウィリアムズのテーマが流れて幕が降ろされる、という冒険活劇としての理想的な終わり方は本作にはそもそもありえない。そして『フォースの覚醒』のように謎を残して次にバトンタッチするわけにもいかない。
まさにデッドエンドの物語だった。
40年経って意味を持ったデ・パルマの批判
『ローグ・ワン』を手放しに賞賛できない責任をギャレス・エドワーズ監督に背負わせるのは酷な話だ。本作はスピンオフとは言え『スター・ウォーズ』作品である以上、大きな十字架を背負っている。そのひとつとは血が流せないということだ。
『フォースの覚醒』の冒頭、ヘルメットに血が付着しただけでファンがざわついたように、本来『スター・ウォーズ』では血は流れないもの理解されている。黒澤作品から多大な影響を受けていながら、ルークの腕が斬り落とされても鮮血がシャワーのように吹き出すことはなかった。ブラスターで撃ち抜かれても、血はドバドバとは流れない。通説ではライトセーバーで切られても瞬時に傷口が炭化するため血は流れないということになっている。例外的なシーンが『エピソード4』に登場するも、実際にはルーカスが流血を嫌ったためと思われる。
J・J・エイブラムスは『フォースの覚醒』の冒頭であえて血を塗りつけることでルーカスの呪縛に挑む姿勢を鮮明にし、『エピソード8』以降の表現上の可能性を広げた格好となったが、『ローグ・ワン』は前も後ろもルーカス作品に包囲されている。そして『スター・ウォーズ』作品である以上、手足が吹き飛び、はみ出る内臓を自分で押さえながら気を失っていく反乱軍兵士の姿は描けない。それではもう『スター・ウォーズ』とは呼べない。製作プロセスにおいてはルーカスから完全に独立した作品でありながらも、ルーカス作品に繋げることが条件づけられている以上、そのテンションを大きく損ねるわけにはいかなかったのだろう。公開前に騒動となった「戦争映画すぎる」という理由で大規模な再撮影が実施されたという噂の背景には、「戦争映画」でもあり「スター・ウォーズ」でもあるという一種の矛盾が関係しているのかもしれない。
とにかく『ローグ・ワン』ではこれまでのシリーズとは違って、華々しく散ることが求められた。多勢に無勢という『ワイルド・バンチ』的設定のなかで、それでも戦地に赴き、語り継がれることのない無名戦士たちの戦いを描くことが目的だった。
ジョージ・ルーカスはあっけない死を好まない。役割が与えられたキャラクターが犬死して途中退場することは望まず、ブラスターのレーザーが飛び交う戦場の真ん中でも「フォースの加護」によって彼らの安全は担保される。こういったルーカスの過保護とも言うべきキャラクターへの愛情があってこそ、1977年公開の『エピソード4』から40年近く経過しても、同じキャラクターによってその続きが製作できた訳だが、『ローグ・ワン』の状況は正反対だった。
フォースに守られることで戦場の悲惨さから離れられた旧シリーズのキャラクターたちとは違い、『ローグ・ワン』の戦士たちは常に犬死の危険性と隣り合わせだった。もちろん『エピソード4』でジェダイは復活するのだから『ローグ・ワン』にもフォースが作用している可能性は高いのだが、その視点を物語内で共有しているキャラクターは少なく、少なくとも本作で散っていく反乱軍兵士たちはフォースの力を頼りにしてはいない。フォースの遠隔操作でデス・スターの設計図が向こうから近づいてくることはない。仲間たちの屍を乗り越えて、誰かが掴み取らなければならないのだ。
かつてジョージ・ルーカスがシリーズ第1作目『エピソード4/新たなる希望』の試写を行った際に、ブライアン・デ・パルマが言い放ったという「フォースという都合のいい魔法」「陳腐な悪役」そして「菓子パンを頭に乗っけたお姫様」という批判ポイントが『ローグ・ワン』では一種の呪いのようにのしかかる。「フォースという都合のいい魔法」によってキャラクターへの愛情が積み重ねられていった過去作とは違い、フォースがないという設定であるが故に「使い捨て」となるキャラクターたちの一瞬の煌めきを頼りにしつつ、フォースがあったからこそ避けてこれた戦場の悲壮さとも向き合わなければならない。
そのせいで本作は「受け継がれる希望」がテーマでありながら、その助走となるはずの悲壮感が不十分に感じた。血のない戦争がゲームの延長であるように、彼らを失った悲しみは描けたとしても、彼らが流したはずの血の痛みが伝わってこない。
同様にベン・メンデルソーン演じるクレニック長官も、ダース・ベイダーとは違ってルーカスの過保護な庇護を受けないため、「陳腐な悪役」のままだ。
そして「菓子パンを頭に乗っけたお姫様」についてはもう何も言うまい。
それでもミッションは成功した
本作は『スター・ウォーズ』のオリジナルとプリクエルを繋げる役割としては満点であっても、一本の独立した映画としては制限があまりに多すぎ、傑作と呼ぶには気がひける。それでも『ローグ・ワン』は与えられたミッションを完遂したことは間違いない。
ガジェットの作り込みとその見せ方。登場人物たちの劇画的個性。宇宙の広さを俯瞰しながらテンポよく進む前半から、スカリフを舞台とする地上戦では一転してアンテナ塔を仰視するダイナミックな視点の移動。そして孤独だった主人公ジン・アーソがやがて使命感に目覚めていく過程とは、そのまま『ローグ・ワン』の立場を象徴することになる。
孤独なジン・アーソは、どこまでも「親」に支配されている。親が特別だったために試練が与えられるというのはルークと同じだが、父親が特殊だっただけで、彼女自身は決して特別な存在ではない。それでも彼女は泣き言ひとつこぼさず、与えられた運命と向き合って、デス・スターの設計図を奪ってみせる。
そしてスピンオフの『ローグ・ワン』は、どこまでもルーカスの『スター・ウォーズ』に支配されている。それは『フォースの覚醒』も同じだが、『ローグ・ワン』には守らなければいけない制限が多い。それでも『ローグ・ワン』は活劇としての『スター・ウォーズ』のルールに従いながらも、物悲しい戦争映画としても完成して見せた。
映画の最後、思わず胸がいっぱいになってしまったのは、こんな不可能なミッションに挑んでいった彼らのひたむきさのせいだと思う。
『ローグ・ワン/スター・ウォーズ・ストーリー』:
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