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映画ジャーナル<ビーグル・ザ・ムービー>

【映画】『そして父になる』レビュー “60年目の小津への返答”

2013年も残り3ヶ月というところになって見応えのある邦画が続々と公開されている。そのなかでも国内外ともに前評判の良かったのがこの『そして父になる』。カンヌ映画祭での審査員賞の受賞とその流れでのスピルバーグのドリームワークスによるリメイク決定。国内市場の動向にのみ注意を払っている現在の邦画作品のなかでは異例な作品。しかもそれがストレートなドラマ作品となればなお異質。これまでの是枝作品とはひと味違った作品でした。

ストーリー

一流企業に勤める野々宮良太は仕事を優先させて家のことは妻のみどりに任せっきり。ある日、6歳になる息子の慶太が、生まれた病院で他の赤ん坊と取り違えられていたことが判明する。自分たちの子供だと信じて疑いもしなかった息子が、実は血のつながりがなかった。慶太の生物学上の両親である斎木夫妻に育てられていた流晴こそが本当の息子だったことを知る。

自分の本当の子供を見抜けなかったことで苦しむ妻のみどり。それでも今まで通り仕事優先の生活を送ろうとする良太。そして子供を取り違えられた二つの家族は、週末だけ“本当”の子供と過ごすことにする。高層マンションで暮らす家族と下町のしなびた電気屋の家族。対照的なふたつの家族は、一体どうすることが最善なのかについて考える。
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レビュー 「60年目の小津への返答」

久しぶりに全うな日本映画を見たような気がした。もちろん去年だって一昨年だって優れた邦画はいつだって作られてきたが、いわゆる“日本映画”の文脈のなかで語られる家族物語というジャンルに限って言えば、近年で類似するクオリティーの作品をすぐには思い出せない。とにかく出来のいい映画だった。

ストーリーに関しては別に驚くべきものはない。特にこれまでに是枝作品と接したことがあれば尚のことラストの決断まで滞りなく是枝的予定調和のなかで終わっていく。“血”と“時間”どちらが優先されるのかという問い自体にも驚きはなく、この劇中で何かしらの回答が示されたところでそれが唯一の真理になることはありえない。この映画の主題や狙いはそんなつかみどころのないものではない。きっと是枝監督はより明確な意図と姿勢をもって本作に取り組んでいる。オイディプス的な父性問題や、前述の“血”と“時間“ははっきりいってどうでもいい。そんなものは文学的なルーティーン作業に任せればいい、とまで思っているかは知らないがそんな感じだろう。そもそも“血”と“時間”問題に関してはこの映画以前から、男は血を選ぶし女は時間を選ぶと分かりきっている。結論はその男女間の力関係に委ねられるだけだ。

この作品は是枝作品のなかでもひとつの転換となるだろう。是枝作品の特徴でもある、空間を切り取るようにして作られた“間”はこの作品でも健在で、音を消してひたすら対象を写し続けるところはやはり変わらない。それでもこれまでと明らかに違うのは、見るからにこの映画はフィクションなのだ。もちろんこれまでの是枝作品も実際の事件を題材にしてもフィクション映画であったが、それでも自身の出発点である手持ちカメラを使ったドキュメンタリー的な手法で物語を進めていくことが多かった。反面、この作品ではほとんど絵がぶれない。それどころか長いレールを使ったシーンが多い。これまでなら手持ちでぐいぐいいってそうなのに。なぜこういった撮影手法を用いたのか、単にフジテレビが制作に関わったため資金や機材が潤沢だったという理由だけではないと思う。

本作の撮影監督を努める滝本幹也氏は長く広告写真の分野で活躍してきた人物で本作が長編映画撮影のデビューとなる。これまでも是枝作品には作家性の強い撮影監督が関わってきたが本作は突出している。これまでとは明らかに絵が変わっているのだ。滝本氏の絵作りに対するスタンスは今月号(No.764)のブルータス『ほめられる写真。』を読めば納得。徹底的に絵にこだわる手法はきっと是枝監督が本作を作る上でどうしても必要とした視点なのだと思う。

是枝監督(左)と滝本幹也撮影監督(右)

是枝監督(左)と滝本幹也撮影監督(右)

 その理由は小津安二郎にある。『そして父になる』を見終わったとき、これはあたらしい『東京物語』だと思った。正確に言うならば、今から60年前に撮られた小津安二郎の『東京物語』への返答だと思った。小津が徹底して絵の構図や美しさにこだわったことは有名だ。独特のローアングルだけでなく、箸の置き場所ひとつにも気を使っていた。戦後間もない時代にあって既存の社会を支えてきた家族像の崩壊を予見した小津は、その美しい映像のなか千里眼的に家族の揺らぎをおさめた。それを神話として後世に残すために。しかしその後の日本映画と言えば、この小津が予見した家族の揺らぎに対して正面から現代的な検証を行おうとはしなかった。60年前の東京物語を同時代に再現するという意味不明を繰り返しを行うだけで、小津の発した問いには答えようとはしなかった。日本映画には小津という家族神話の源流がありながら、それを三丁目に落ちる夕日を見送るが如く懐古するばかりで、その物語の流れの続きを担おうとはしなかった。現実には再現不可能どころかそもそも過去にあったかすら怪しい理想の家族像を追い求めるばかりで、現代の家族像を新しく構築しようとする意思をなぜか放棄し続け、少なくとも大規模上映が可能な作品で描かれる家族はいつまでたっても山田洋次的な家族ばかりで、あったとしても過去の理想を逆説やパロディーとして扱うだけで再構築しようとはしてこなかった。

しかし『そして父になる』は明らかにそこから一歩踏み出した。

東京物語

東京物語

本作では二つの対照的な家族が登場する。都会的で冷めた家族と下町の情緒のなか貧しくも逞しく暮らす家族。前者は典型として縮小された現代の家族像であり後者は典型として拡大された過去の家族像。この映画が『東京物語』との関連を求めているのなら、この安易とも思える定型的な対比も、作品の意図からは外れない。解体からの構築という作業には常に神話的要素が必要とされるのだ。
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映画のラスト、観客に余韻を強要するようにして過去の理想に属する下町家族の暮らす古びた家をゆっくりと引きながら映していく。これは明らかなに過去の理想的家族像の死を表現している。この映画が新しい家族像を物語として提示できたかはわからない。しかし少なくとも現代の怠慢によって再演され続けてきた意思なき“古き良き家族像”の延命装置のスイッチを切ったことは間違いない。それだけでも十分な評価に値すると思う。

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是枝作品

東京物語

滝本幹也作品

 

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