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映画『雨の日は会えない、晴れた日は君を想う』レビュー

Demolition movie stills

『ダラス・バイヤーズ・クラブ』のジャン=マルク・バレ監督ジェイク・ギレンホール主演『雨の日は会えない、晴れた日は君を想う』のレビューです。妻の突然の死によって全てに無感覚になった男が、破壊を通して過去を取り戻し再生していく姿を描く。監督は『ダラス・バイヤーズ・クラブ』のジャン=マルク・バレ。

『雨の日は会えない、晴れた日は君を想う/Demolition』

日本公開2017年2月18日/ドラマ/101分

監督:ジャン=マルク・バレ

脚本:ブライアン・サイプ

出演:ジェイク・ギレンホール、ナオミ・ワッツ、クリス・クーパー、ジューダ・ルイス

レビュー

そもそも原題は「破壊」を意味する「Demolition」なのに、何を間違えれば『雨の日は会えない、晴れた日は君を想う』という邦題が付けられるのだろうという疑問は劇中のあるシーンで解消されることになるのだが、だからといってその邦題と映画の内容が深く結びつく訳でもなく、その不釣り合いなタイトルから催されるモヤモヤ感の方が本作の内容と結びついてしまうという不思議な作品だった。

監督は『ダラス・バイヤーズクラブ』や『わたしに会うまでの1600キロ』でメキメキと評価を上げるジャン=マルク・ヴァレ。これまで主に歴史モノや伝記モノ、自叙伝モノを映画化してきた彼が、妻を亡くし自分を見失う男の再生を描く。

そして主演はエキセントリックな演技に磨きをかけるジェイク・ギレンホール。

共演にはナオミ・ワッツ、そして主人公の義理の父親役を演じるのは『遠い空の向こうに』でもジェイク・ギレンホールの父親を演じるクリス・クーパー。

作品の外形はとてもしっかりしている。

亡くした心を探すため、男は分解する

ジェイク・ギレンホール演じるデイヴィスはウォール街の投資銀行に務めるエリート。

妻は会社の代表の娘で出世も約束されているが、仕事を優先し続けた結果、夫婦生活は空虚なものになっていた。そんなある日、突然の事故で目の前で妻が死んでしまう。病院で妻の死を知らされたデイヴィスは、悲しみにくれる義理の両親のそばで涙さえ流れなかった。

妻の死を知らさらた直後、病院の自動販売機でチョコレートを買おうとするも、商品は出てこない。そのことが頭から離れないデイヴィスは妻の葬儀の最中に、自動販売機を設置した会社へのクレームの手紙を書き始める。

やがて徐々に奇行に走るようになったデイヴィスは妻と最後に交わした会話をきっかけに、身の回りにある「壊れかけ」のものをひたすら分解しはじめる。まるでどこかに隠れてしまった自分の心を探すように、冷蔵庫、ランプ、便所のドア、そして自分の家を、破壊していく。

そして自動販売機を巡るクレームの手紙は不思議な出会いを生み、やがてデイヴィスは大切な過去の記憶をどこかに落とし忘れてきたことに気がつく。

再生と破壊の間の違和感

ケヴィン・クライン主演作に壊れてしまった親子の絆を取り戻すために一緒に家を建てる『海辺の家』という映画があったが、本作はその真逆で、再生のためにモノを壊しまくるという設定。

妻の死をきっかけに徐々に壊れていく主人公が、無意識のうちに妻との有意義な日々を探ろうとした結果、「冷蔵庫が壊れていたわよ、直してね」という死の直前の言葉に影響されて、目に付くすべての「壊れかけ」の物を破壊、分解することがやめられなくなってしまう。しかも本人にはその行為の異常性が全く理解できていない。

便所のドアの滑りが悪いから、全てを破壊した。その何が悪い?

本作の前半はそんなジェイク・ギレンホールの「1人舞台」という形で進んでいき、「笑っているのにその目は死んだまま」の理由が徐々に明かされていく。そしてその奇行の始まりでもある一通のクレームの手紙が、当初の思惑からは外れて意外な意味を持つようになる。

ナオミ・ワッツ演じる自動販売機のクレーム担当は、デイヴィスが書いた長文の手紙に「なぜか」個人的に返信してしまう。そこから二人は急速に接近し、やがて彼女の一人息子も交えた不思議な関係が築かれていく。

本作には主人公の過去と現在の関係を描く筋と、主人公の現在と回復を描く筋が同時進行いていくのだが、この両者の繋がりが主人公の奇行ぶりでは回収できないほどに激しく乖離する。

妻の突然の死から徐々に自分を失っていき、「そもそも自分は妻を愛していたのか?」という自問自答を言葉ではなく虚無によって演じてみせるジェイク・ギレンホールの演技には目を見張るものがあるのだが、そんな彼がナオミ・ワッツ演じる女性と出会い、その一人息子とも特殊な関係を築いていく経緯は、理不尽というより不自然だった。

突然送られてきたクレームの手紙。妻の死の直後にチョコレートを食べようと思い御社の自動販売機から購入を試みるも、金を吸い取っただけで商品は出てこなかった、、、云々というクレームとしては個人的かつ突拍子も無い手紙の内容を真に受けて、わざわざコールバックするだけで十分に変なのに、しかもその電話のやりとりが深夜に行われるという設定はこの手のドラマ映画には似つかわしくない。

デイヴィスが異常なクレームの手紙を書くという経緯は妻の死という形で説明できるが、その異常さに呼応する側の理由が弱い。自動販売機の不調と妻の死について描かれた個人的なクレームに対して、深夜に電話で返答するという行為は、主人公の奇行ぶりよりもある意味において常識はずれなのだから、その理由については丁寧に描かれるべきはずだが、それが「大麻」や「息子」や「理由なき孤独感」といった適当な理由でしか説明されない。

そしてその後のジェイク・ギレンホールとナオミ・ワッツの交流も、破壊と再生の物語というよりも、ラブコメディのような展開をみせることになる。問題を抱えるふたりが互いの欠点を補っていくというのは『世界にひとつのプレイブック』でも描かれる再生物語の定型ではあるが、あまりに破天荒な設定と、リアリティのない出会いのために、映画の本筋を見失ってしまい座り心地が悪い。

途中からジューダ・ルイス演じるナオミ・ワッツの息子の存在によって、ストーリーの不自然さは幾分修正され、思春期の不安定さが主人公の心の喪失と共鳴していくシーンは再生の象徴にもなるのだが、それゆえに主人公と出会いの不自然さが余計に目立ってしまうことにもなる。とにかく登場する人やモノが唐突すぎて、大麻を手放せない主婦も、自分の性に悩む少年も、メリーゴーランドなどの全てが、主人公を再生させるためにわざわざ別の世界から持ってきたような印象が強い。

本来はジェイク・ギレンホールのような狂気を演じる役者ではなく、もっと軽いタッチで精神の疲れを演じるタイプの役者の方がよかったのだろう。物語の序盤、ジェイク・ギレンホールの突き抜けた奇行にリアルな狂気を感じるほどに、その後の再生への過程が不自然に浮き立つ。

説明のつかない出来事の集積によって形成される人生の不思議さを実存主義的アプローチで切り取ろうとするジャン=マルク・バレ監督の意図はよく理解できる。そうでもしないと現代の理不尽を前には気が狂ってしまいかねない。不条理な世界であるがゆえにその不条理と向き合うことでしか生きていけないというのはまさにサルトルの『嘔吐』だが実存的な問いかけに対しての本作の答えはあまりにメルヘンチックであり、この手の物語で使い古された再生コードに頼りすぎている。

結局どこまで行っても、そんなもんで人は再生できるのだろうか、という冷めた疑問が消えない。

本作から感じた違和感は作品のテーマそのものを否定しかねないほどに強かった。

『雨の日は会えない、晴れた日は君を想う』:

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