『泥の河』や『死の棘』で海外でも評価の高い小栗康平監督による伝記映画。戦前のフランス、そして戦後日本で活動した著名画家、藤田嗣治をオダギリジョーが熱演。フランスと日本、自由と戦争、喜びと悲しみ、それぞれの相反する想いを抱えたフジタの半生を独特の映像美で描き出す。劇場公開は2015年11月14日より。第28回東京国際映画祭コンペティション部門出品作。
『FOUJITA』
日本公開2015年11月14日/日本・フランス/伝記映画/126分
監督:小栗康平
脚本:小栗康平
出演:オダギリジョー、中谷美紀、アナ・ジラルド、アンジェル・ユモー、マリー・クレメール、加瀬亮、りりィ、岸部一徳 など
あらすじ
1920年代パリ、日本人画家・フジタ(オダギリジョー)が描く裸婦像は「乳白色の肌」と称賛され、彼は時の人となった。一躍エコール・ド・パリの人気者となったフジタは、雪のように白い肌を持つリシュー・バドゥー(アナ・ジラルド)と出会い、自らユキと名付け彼女と共に暮らし始める。やがて第2次世界大戦が始まり、フジタは日本に帰国し戦争画を描くようになるが……。
参照:www.cinematoday.jp/movie/T0019702
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レビュー
相反するフジタの悲しみや喜びはどこに向かうのか?:
海外でも高い評価を受ける小栗康平監督の10年ぶりの新作は、日本を代表する近代画家の藤田嗣治の光と影の半生を綴った伝記映画となった。第二次大戦前の華やかだったパリで日本画の手法を取り入れた画風によって一躍エコール・ド・パリの寵児となった藤田嗣治。戦前のパリで自由を謳歌したフジタは、やがて戦争に突き進む日本に帰り従軍画家となって大東亜の宣伝への加担を余儀なくされる。自由と戦争、愛と別れ、俗と聖、様々な相反する想いを抱えていたフジタをオダギリジョーが演じる。
本作には様々な対比で溢れている。物語の前半は華やかなパリを舞台にし、後半は一転して戦中日本の重苦しい空気に支配される。またフジタの私生活でも、奔放な女性関係のなかで結婚と離婚を繰り返すパリと中谷美紀演じる5番目の妻との穏やかな疎開先での生活を明確に区分している。これらの対する生活を後景にしてフジタが内部に抱えていた両極の感情を描いている。それは映像表現でも同様で、色彩豊かに悦楽的に描かれるパリでの生活に反し、無謀な戦争に突き進む日本での生活では一転してフジタの心象風景の歪みをCGを利用して描いている。宮本輝原作の『泥の河』や『死の棘』で小栗監督が描いてきた戦争と日本の関係は本作でも意識的に扱われている。
しかしその試みは小栗監督の過去作ほどに成功しているとは思えない。アート映画の難解さを拠り所にしながらも、だからこその深みや、表面上の出来事や意味を乗り越えるほどの説得力は皆無となっていた。本作を通して観客に提示されるのは「フジタの激動に半生」という史実に留まり、彼がその激動の半生のなかで何に喜び、何に悲しんだのか、その共感性が著しく欠如している。二時間を超える柄の大きな作品だけに様々なエピソードやプロットが用意されているが、そこで描かれるのは「喜んでいるフジタ」や「悲しんでいるフジタ」の外形に限られ、彼の喜びや悲しみがどこにも繋がっていない。成功や栄華、戦争や没落を背景に、ただフジタが喜び悲しみ絶望する様子しか伝わってこない。
映像表現において「悲しみ」や「喜び」といった感情を描くとき、ただ悲しみに暮れる人や喜ぶ表情を映せばいいのではない。正確には悲しみそして喜ぶ登場人物の姿を通して、その感情を共感可能な概念として描く必要がある。つまり「悲しみ」や「喜び」を表すエピソードを通してそれらの感情を誰にでも経験のある概念として抽象化する必要があるのだが、その部分が本作ではまったく考慮されていない。だから目の前にフジタに感情移入ができず、観客はほとんど無視された存在と成り下がってしまう。端的に言えば、とても退屈なのだ。
例えば物語の前半で描かれるパリには喜びで溢れている。そこに登場する人々は皆が笑顔で冗談を飛ばし合い、フジタもユーモアを駆使し人気者になっていく。しかし観客として観ている限り、それのどこが面白いのかまったく理解できない。劇中で交われるユーモアにぴくりとも笑えない。ただスベっているのではなく、理解ができないのだ。でもスクリーンに映される人々は楽しそうに大声で笑っている。この落差は20世紀のパリと現代の日本の文化性の違いに由来するのではなく、単純に脚本の独りよがりと言える。趣は違えどウッディ・アレンの『ミッドナイト・イン・パリ』で描かれるような時代の連続性は無視され、ただひたすら現代と断絶されているのだ。
それは後半で描かれる日本での陰鬱とした生活でも同様で、千葉での疎開生活のなかでフジタは何かに絶望しているように見える。それは描きたい絵を描くことが許されず、戦争画という政治的な圧力への無力感として表現されているが、ただそれだけだった。当たり前すぎる事実を殊更大げさに、狐というメタファーを通して難解に描こうとする。パリでの描写とは真逆に見えて、観客不在の演出という意味ではまったく同様なのだ。
おそらくはフランスと日本という文化的に異なる二つの家を持ったフジタが内部に抱えていた分裂気味の感情を対比的に描こうとしたのだろうが、実は同じことしか描いていない。それはただ喜び悲しむだけのフジタだけだ。彼が抱えていたアンビバレントな感情とその人間性を繋ぐ何かがまったく描かれていない。繰り返すが、とても退屈なのだ。
確かにオダギリジョーは藤田嗣治にそっくりかもしれない。フランス語も頑張っている。中谷美紀や加瀬亮といったこの手のアート系映画ではおなじみの「意識の高い」俳優たちも出演している。映像も特に後半は非常に美しく、藤田の代名詞とも言える乳白色を意識したような微妙な色調を作るのは大変だっただろう。でもそれらのパーツも、劇中で描かれるエピソード同様に他の要素と有機的に結びつくことはない。ただそれだけなのだ。
実際の藤田は戦後の過剰な自己反省ブームのなかで激しい非難を受けた。しかし彼の芸術は本物だったから、彼の死後、再評価されることになる。しかし本作はどうだろうか。きっとどこまで行っても、ただそれだけの映画でしかないと思える。
ということで小栗康平監督作『FOUJITA』のレビューでした。第28回東京国際映画祭コンペ部門作ということでかなり期待して観てみましたが、想像以上の「アート」ぶりで退屈で仕方ありませんでした。特に前半の煌びやかなパリでの人間模様は苦痛なほどに退屈でした。こういう「パリ」だから、「前衛」だから、「アート」だから、分からなくても結構です、という姿勢は誠実ではないです。まあ、後半も似たようなものです。しかし町田博氏による映像は見る価値ありです。大きな画面だからこそ映えると想います。ということでエコール・ド・パリや1920年代のパリに関心のある人にはいいじゃないでしょうか。以上。
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