「あの頃ペニー・レインと」のキャメロン・クロウ監督が、ブラッドリー・クーパー&エマ・ストーン共演で描いた『アロハ/ALOHA』のレビューです。レイチェル・マクアダムスやビル・マーレイら豪華キャストが集結したハワイを舞台にしたロマンティック・コメディ。
『アロハ/Aloha』
全米公開2015年5月29日/日本公開未定/アメリカ/105分/コメディ
監督:キャメロン・クロウ
脚本:キャメロン・クロウ
出演:ブラッドリー・クーパー、エマ・ストーン、レイチェル・マクアダムス、アレック・ボールドウィン、ビル・マーレイほか
あらすじ
軍事コンサルタントのブライアンは大富豪カーソンによる軍事衛星打ち上げ計画を手伝うため、かつて軍人として赴任したことのあるハワイを訪れる。そこで彼は、元恋人のトレイシーと再会を果たす。一方、空軍との橋渡し役を務める女性パイロットのアリソンとは初対面から反発しあっていたが、一緒に行動するうちに次第に惹かれあうようになっていく。
レビュー
現実逃避の何が悪い?:
キャメロン・クロウの映画はいつも都合がいい。主人公が失敗し挫折するとどこからか助けが舞い降りてくる。それが自伝的な映画であったとしても夢物語のように心地よく、そして悲しげな細部さえも結局は誰も悲しまない結末へと繋がっていく。失敗や挫折を経験する主人公も、ファンタジーとしか思えないような手助けのおかげでそれらを乗り越える。現実味というものがないのがキャメロン・クロウ作品の特徴であり、彼の作品を罵倒する際の常套句となっている。
本作『アロハ』もまた同様で、評判はかなり悪い。というかキャメロン・クロウの過去作のなかでも極めて評判の悪い『エリザベスタウン』と並び評されるように、脚本はご都合主義の連続で登場人物全員が主人公を影で助ける使命を持って生まれた存在となっている。エマ・ストーンが断っても断っても強引にお茶に誘ってくれるなんてどんな夢だ。またハワイを舞台にしながら人種構成が歪で、ヒロインのエマ・スローンはハワイアンの他にも様々なルーツを持つという設定ながらもどう見ても純な白人。本作への非難や罵倒の多くは、こういったことだ。
ここでちょっと閑話休題。まずはキャメロン・クロウ作品と個人史について軽く紹介したい。そして後々に本作を全力で擁護しようと思う。
あの頃、男しかいない男子校(あえて二重強調)に通っていた僕にとって甘い青春なんていうものはアメリカ映画か小説からでしか経験できないあまりに遠い存在だった。日本のテレビドラマは見なかった。自分という存在の延長にありそうでただでさえ鬱屈としている今がさらに惨めなものになり、やがてそれは怒りへと変わることが目に見えていた。ルサンチマンは嫌だった。だから高校生だった頃は1980年代のアメリカの青春映画をたんまり見た。それなら純粋な物語として一時の夢を見させてくれる。そして初めてのキャメロン・クロウ作品との出会いは『セイ・エニシング』だった。
これも今思えば、ナニな映画だと思う。若き日のジョン・キューザックが卒業前のパッとしない高校生を演じており、彼とくっついてくれるのがアイオン・スカイという美少女。どうみても将来性ゼロのキックボクサー志望の男が、終いには一緒に飛行機に乗って彼女の留学先にまでお邪魔する始末。めちゃくちゃ羨ましかった。ラストシーンで互いの手を取りながら飛行機に乗るシーンは強烈なイメージとなって、この男しかいないクソみたいな男子校を卒業さえすれば、きっと全てが上手くいくと夢見させてくれた。
次に印象的なのが2000年の『あの頃ペニー・レインと』。大学も高校の延長線上でつまらなかった。それでもまだ社会を知らない僕にとって、小難しい大学の外にはケイト・ハドソンみたいに無邪気で感受性豊かな女の子がたくさんいて、彼女たちに失恋したとしてもフィリップ・シーモア・ホフマンみたいな話の分かる大人に「かっこ悪い人生」の価値を教えてもらえるものだという希望は確実にあった。今のお前は「かっこ悪い/Uncool」かもしれない。でも始まりとしてはそう悪くない。そう言って励ましてくれる大人がどこかにいるはずだと信じさせてくれた。
そしてどうやらそれらは全部ファンタジーだったと気がつきはじめた頃(遅いぞ10年前の俺)、あの『エリザベスタウン』を観ることになる。何をやってもうまくいかず自殺を決意したオーランド・ブルームが、父親の死をきっかけに様々な人々の助けのなかで生きることの喜びを見出していく物語。もちろん当時の僕はオーランド・ブルームでもなければ父親もピンピンしていたが、何をやっても上手くいかないことだけは重なり、なぜがこの映画を繰り返し見た。批評では散々なことが書かれ、監督自身も脚本はまずかったと認めているくらいの作品だ。それでも当時の僕は、荒唐無稽で、村上春樹の小説みたいに女の子から言い寄ってくれ、バックではライアン・アダムズやトム・ペティの最高の音楽が勇気付けてくれる、この非現実的な物語にまた性懲りもなく、夢を見ていた。現実はこんなに甘くもなければ優しくもないことを痛いほど知っていても、そんな現実だけがこの世界じゃないと信じさせてくれた。それを現実逃避だということくらい知っている。でも映画の大いなる魅力のひとつに観客を現実から遠ざける作用があるとするのなら、キャメロン・クロウの作品はまさにこの嫌らしく優しさの欠片もない現実を、例え後ろ向きなどうだったにせよ一時でも忘れさせてくれる力があった。きっと厳しい大人の世界でも力強く前向きに生きていけるリアリストの皆様には、キャメロン・クロウの作品はご都合主義の自分語りとしか映らないのだろうが、そんな人たちだけのために物語はあるのではないし、どちらかといえば逆の立場の人たちにこそ物語を語る価値があるのだと信じたい。
そして話は戻り本作『アロハ』で僕はまた確認してしまった。まだちゃんと現実逃避できる。
主人公はブラッドリー・クーパー演じるブライアン。本作は宇宙開発の歴史を伝える資料映像をバックに、子どもの頃の宇宙への素朴な憧れが21世紀になってビジネスに乗っ取られたことへの呪詛のようなブライアンの言葉からスタートする。しかしその恨みは彼自身にも向けられていることを観客は知る。ブライアンはハワイに向かっている。その理由は大富豪が手がける軍事用ロケットのプロジェクトに関わるためで、結局は汚い仕事だ。一方でブライアンはアフガニスタンでの仕事で足に障害を負っている。自分の夢に挫折し、現実にも痛めつけらた男がブライアン。おかげで自分自身の哲学のみを信奉するだけの皮肉屋に育ってしまっている。
ヒロインはエマ・ストーン演じるイング(Ng/ハワイ独特の名前らしい)。ブライアンが関わるプロジェクトの連絡係として彼に同行することになる、明るく活発で、夢や希望をまっすぐに信じている空軍パイロット。ブライアンの嫌味にも全力の笑顔で返答し、いつだって前向きな理想家だ。もちろん彼女とブライアンの関係は、ダースベイダーとオビワンみたいなもので、お互いが光と影となっているのだがフォース云々ほど剣呑ではない。
そして脇を固めるのは2児の母となっているブライアンの元カノを演じるレイチェル・マクアダムズ。そしてブライアンをハワイに連れてきた大富豪を演じるのがビル・マーレイ。他にもアレック・ボールドウィンやジョン・クラシンスキーなど個性的な役者が揃っている。
これらの登場人物の紹介だけで物語のほとんどが説明したことになる。彼ら全員がそれぞれのやり方で主人公ブライアンの心の傷を癒し、彼の夢を励まし、そして忘れかけていた信念に火をつけ、まだ終わっていない未来を信じることができるように舞台を整えてくれる。
もう嫌になるくらい主人公ブライアンに都合のいい物語だ。ハワイの人々が本作を観て怒った理由もわからなくない。ハワイという場所は日本にとっての沖縄のような場所であることを示唆しておきながら、その意味や源流を描こうともせずに都合よく本土(=ブライアン)と手を握って全てを受け入れる。まるで神様は白人ブライアンのためにハワイが作られたようなのだ。色々と巻き起こる問題たちも結局は自分達から解決に勝手に向かっていき、出会う人は多くは聖人か女神もしくは無邪気な悪魔。
だからこそ「現実味がない」とか「ご都合主義がひどい」とかいう本作への批判に対しては「これは神話なんだ」という言葉で答えられると思う。そこは奇跡さえ珍しくもない神話の世界。誰も『オデュッセイア』を「ご都合主義がひどい」とは罵倒しないし、『クトゥルフ神話』を「現実味がない」と非難しない。そんな感じでそろそろ世界中の映画ファンにはキャメロン・クロウの作品は現代の甘い神話なのだと理解してほしい。彼自身は現代のビリー・ワイルダーになりたいのかもしれないが、やっていることはホメーロスやラヴクラフトにずっと近い。現実には起こり得ないと知りながらも、起こったかもしれない全ての可能性を余さず提示することで結晶化される物語の寓意性とは、現実的な可能性を描いた物語よりも多くのことを教えてくれることがある。『オデュッセイア』がその約3000年後に『ユリシーズ』となり冴えない中年男と現実の街ダブリンに置き換えられたことを思えば、神話だから現実的価値がないと切り捨てるのは誤っている。
本作『アロハ』ではその神話性がブライアンの子供時代の投影としての元カノの息子や、物語上のトリックスターであるビル・マーレイらによって繰り返し強調されている。批評ではわざとらしく嘘くさいと断じられる彼らのセリフとは、天使や悪魔のそれだと理解すれば腑に落ちる。いつだって天上の方々は説教や婉曲が好きなのだ。
『エリザベスタウン』でも批判された、聞いているだけで恥ずかしくなるメッセージは本作でも健在だ。「まだまだ大丈夫、やり直せるよ」という小恥ずかしいメッセージさえもこれだけ繰り返し手を替え品を替え聞かされれば、一種の暗示となり一時の夢を見させてくれることもある。この現実世界とは完全に切り離されながら、いつかどこかでこの現実に繋がってくれるかもしれないという夢を見させてくれる神話。いつかどこかで現実になってくれると願いたくなる神話。キャメロン・クロウが描くのはそんな物語だ。
もちろん手放しに本作『アロハ』を褒め讃えることはできない。でもこんな映画を必要としていたことを否定したくもない。いつからか映画を見ていても現実世界に引き戻されることが多くなった。年のせいなのかもしれないが、『バットマン』、『アイアンマン』、『キャプテン・アメリカ』などに代表されるように、映画として当然のように非現実的な世界を描きながら、テーマとしては非常にシリアスで現実的な問題を取り扱う傾向は近年より一層に強くなっている。そこにはシンプルで純粋な夢はない。この辛い現実から逃げ込める物語としての余地もそこにはない。あるのは理想や正義を希求し血を流しながらも戦う姿で、ちょっと息苦しく感じることもある。
その点この『アロハ/Aloha』は至って能天気だ。能天気すぎで配慮に足りない部分も確かにあるが、この世知辛い現代においてここまで「大丈夫、いつかきっとうまくいく」と何の根拠もない自信に満ち溢れた映画も珍しい。それは同時に大人の厳しい社会だけがこの世界の全体ではなく、そのさら向こう側には全く新しい可能性に満ち溢れた場所が残されているという漠然とした憧れにも他ならない。『アロハ/Aloha』を見て、少なくとも僕は、今よりずっと若かった頃にキャメロン・クロウ作品を観たときとほとんど変わらず「なんかいいことあるかも」と素直に思えた。
それが現実逃避だとして、何が悪い。と思うのだ。
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ということで『アロハ/Aloha』のレビューでした。キャメロン・クロウ作品の系譜としては確実に『エリザベスタウン』の延長にある作品で、つまりは大したことないということで間違いありません。しかしキャメロン・クロウ作品に漂う、一見すると厳しさや苦味でコーティングされていながらも口に含めた瞬間には、徹頭徹尾、大甘であるという点において、本作を最大限擁護しようと奮闘した次第です。日本公開はないでしょうが、Netflixなどでは視聴可能なようですので興味があればお試しください。エマ・ストーンは文句なしに可愛いです。以上。
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