リチャード・リンクレイター監督が1980年代の大学野球部員たちの青春を描いた『エブリバディ・ウォンツ・サム!! 世界はボクらの手の中に』のレビューです。70年代の高校生を描いた『バッド・チューニング』、そして少年が大学に入学するまでを描いた『6才のボクが、大人になるまで。』の精神的な続編。青春は、やっぱり、最高だ!
『エブリバディ・ウォンツ・サム!! 世界はボクらの手の中に』
全米公開2016年3月30日/日本公開2016年11月5日/青春ドラマ/116分
監督:リチャード・リンクレイター
脚本:リチャード・リンクレイター
出演:ブレイク・ジェンナー、ゾーイ・ドゥイッチ、ライアン・グスマン、タイラー・ホークリン、ウィル・ブリテン、グレン・パウエル
レビュー
僕が映画を見始めた頃から、リチャード・リンクレイターの映画はいつだって最高だった。『ビフォア・サンライズ』では最高の恋愛を描き、『ウェイキング・ライフ』では最高に考えさせられたし、『スクール・オブ・ロック』には最高に元気付けられたし、『6才のボクが、大人になるまで。』は全てが最高だった。他にも『ニュートン・ボーイズ』とか『ファーストフード・ネイション』とかジャンルを横断して大好きな映画がほとんどだが、それでも『バッド・チューニング』は特別だった。
1976年のテキサスの高校を舞台に、奔放に青春を消費する若者たちの一夜を描いた『バッド・チューニング』は僕にとって未だに最高の青春映画のひとつだし、最高の映画のひとつだ。今では大スターとなっているマシュー・マコノヒー、ミラ・ジョヴォヴィッチ、ベン・アフレックらが出演している青春群像劇で、高校生が抱く将来への期待と不安を、ほとんど完璧に描いている。なかでもマシュー・マコノヒー演じる先輩ウッダーソンの含蓄ある一言は印象的だ。
「俺がハイスクール・ガールに目がない理由は、俺がどれだけ歳をとっても彼女たちはいつまでもハイスクール・ガールのままだからさ/I get older, they stay the same age.」
この言葉は対象が「ハイスクール・ガール」だけじゃなく、最高なものになら何でも置き換えられる。もちろん最高な映画にも。『エブリバディ・ウォンツ・サム!! 世界はボクらの手の中に』を見終わった後、思わずウッダーソンに成り代わってこう言いたくなった。
「リチャード・リンクレイターの作品が好きな理由は、どれだけ僕が歳をとってもいつまでも最高の青春映画のままだから」
『バッド・チューニング』では高校生の破天荒な青春を描き、『6才のボクが、大人になるまで。』では少年が大学生になるまでの12年間を描いたリチャード・リンクレイターが次なる青春映画として選んだのは大学の野球部員たちの青春だった。
ジェイクは高校を卒業しテキサスの大学に入学し、野球部員として大学生活を始めようとしていた。部員たちが暮らす寮に向かったジェイクはそこで一癖も二癖もある先輩野球部員や、精一杯背伸びする同級生たちとの大学生活をスタートする。講義が開始されるまでの3日間、ジェイクは同じ野球部員たちと、酒、マリファナ、ナンパ、ディスコ、野球、恋愛とめまぐるしい時間を過ごしていく。
本作の舞台は大学でも、厳密には大学の講義が開始されるまでの数日間を描くため、新入生であるジェイクたちはまだ大学生とは呼べないもかもしれない。日本の感覚でいうと入学式を終えて講義が開始されるまでの日々であり、上級生にとっては春休みの終わりから新学期のスタートに位置する。そんな宙ぶらりんの数日間が本作の舞台だ。
高校生にとっては酒やマリファナ、そしてカジュアルなセックスといった非日常の光景が、日常として存在する大学生活。それを目の前にしながらまだそこには属していないわずかな時間。「自分にとっての非日常のなかに潜む誰かにとっての日常」、こういう言い方をすると押井守の『うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー』を思い出すかもしれないが、実際によく似た作品となっていたし、鑑賞後に残る、まるでスクリーンのどこかに自分がいたような、自分が経験した過去と精神的に繋がっていく感覚は、優れた青春映画を見分ける上での重要なもので、本作には確実にそれがあった。
特別なストーリーというものは何もない。前述したように本作は誰かにとっての日常であり、プロットもまた同様で、新入生たちを迎えた野球部が休暇の終わりに酒を飲み、ナンパしてあわよくばセックスにもちこみ、また酒を飲んで、昼間はグタグタと寮で冗談を言い合っているだけだ。いうなれば新歓コンパに鼻息荒くなる上級生にとっては当たり前の日々であるが、新入生にとっては何もかもが初めての経験だということ。本作のストーリーを支えているのは、見方によってはがらりと姿を変える日常の繰り返しだ。
それでも本作が最高なのは登場人物のひとりひとりのキャラクターはとにかく生き生きしていることだ。特にジェイクたち新入生にとっての先輩となる野球部の上級生たちは最高だった。80年代ファッションに身を包み、長髪にヒゲにティアドロップのサングラスと似たような風体のため最初はなかなか登場人物に馴染めないのだが、物語上は意味のない馬鹿騒ぎが続くにつれてそれぞれの個性がはっきりと際立っていき、やがては「あー、この人知ってる!」となっていく。
特に野球部のなかでは仙人のようなスピリチャル系ピッチャーは物語上の「トゲ」のような存在となっている。入学時に仲良くなったのに他に友達ができてからは疎遠になり、いつか人伝いに学校を辞めたらしいという噂を耳にするような、折に触れて「今あいつは何をしているんだろうか?」と思い出してしまうような、そんな感覚に似ている。
それでも青春は立ち止まらない。
本作は意味のない馬鹿騒ぎで構成されている一方で、そのなかにはジョン・ヒューズ的とも言える学校内ヒエラルヒーの本当の姿も映し出されている。「野球部」「体育会系」と一言で片付けられてしまう彼らだが、寮のなかには多種多様な人物模様が入り組んでいる。軟派から硬派、スピリチャル系から俺様系、極度の負けず嫌いからいつでもヘラヘラしている奴までいて、当たり前のことだが、「野球」というキーワードは彼らの一部でしかないことがよくわかる。それは「体育会系」だけでなく、「アート系」でも「パンク系」でもおなじこと。
みうらじゅん先生はかつて、文科系と体育会系とは反発し合う存在ではなく実は「チーム」なんだと語られていたが、本作ではその瞬間が登場して感動してしまった。お互い「気持ち悪い」と敬遠しあう間柄でも、個性の違う仲間たちが「野球」で繋がり一つ屋根の下で共同生活できるように、彼らの間にも必ず繋がれる共通性が存在する。それは音楽かもしれないし、映画かもしれない。なんだっていい。好きな何かがあれば、どんな違いでも乗り越えられるのだ。
これは青春映画に限ったことではなく芸術作品全般に言えることだろうが、特定の時代性を描きながらも、そのなかからどの時代にも通じる普遍的な経験を描くことができて、初めてその作品は時代を超えて愛されることになる。その意味でも上述した『バッド・チューニング』のウッダーソンの言葉は芸術論としても通用するのだ。
本作には80年代の青春が詰まっている。それはもう遠い過去かもしれない。若い人にとっては生まれてさえいない時代の出来事かもしれない。でもそんなことは関係ない。僕らがどれだけ歳をとろうとも、この映画のなかの彼らはあの日のままだ。それはあの日の僕らのままでもあり、まだ見ぬあなたの未来なのかもしれない。
映画はジェイクたち新入生が初めての講義が開始されたことで終わっていく。そして教室に現れた教授は新入生を前に黒板に「そう決めたときが、はじまりである/Frontiers are where you find them」と書き込む。教授は前途洋々なる新入生を鼓舞したつもりなのだろう。ではジェイクたちはそれを見て何を感じたのだろう?
この絶妙なラストこそが変わらない青春であり、リチャード・リンクレーターが最高であることの証だと思った。
(、、あと書き忘れたけど、ちゃんと淡い恋愛だってありますよ。評価の別れる作品だと思いますがオススメです)
『エブリバディ・ウォンツ・サム!! 世界はボクらの手の中に』:
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