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『チャッピー』レビュー ★★★★

chappie-movie-poster-dg7.jpgニール・ブロムカンプ監督最新作『チャッピー』のレビューです。自我を育てる人工知能を埋め込まれた戦闘ロボット「チャッピー」が、周りの人間たちの思惑に翻弄されながらも、意思あるロボットとして成長していく姿を描いたSFアクション映画。日本公開は2015年5月23日。

『チャッピー/Chappie』

全米公開2015年3月6日/日本公開2015年5月23日/アメリカ映画/120分

監督:ニール・ブロムカンプ

脚本:ニール・ブロムカンプ、テリー・タッチェル

原作:ニール・ブロムカンプ『Tetra Vaal 』

音楽:ハンス・ジマー

出演:シャールト・コプリー、ヒュー・ジャックマン、デーブ・パテール、シガニー・ウィーバー

あらすじ

犯罪都市ヨハネスブルグでは治安維持のために戦闘ロボットを警察機能に取り入れることを決定し、結果、犯罪率は劇的に減少することになった。

戦闘用ロボットを開発したディオンは、ロボットをさらに進化させる目的で独自に人工知能の開発にも成功していた。しかし現状に満足する会社の社長に、自律的問題解決能力を持つ人工知能をロボットに応用することを拒否されてしまう。

一方でディオンとは別の 戦闘力に勝るロボット「ムース」を開発していたヴィンセント(ヒュー・ジャックマン)も、ディオンの開発したロボットだけが評価されている現状に不満を抱いていた。

科学の誘惑に負けたディオンは、廃棄処分を待っていたロボットを無断に持ち帰り、それに人工知能を埋め込む実験を個人的に行おうとするも、ちょうどその時に、ロボットを外部からコントロールしようと企む3人の犯罪一味に誘拐されてしまう。

犯罪一味を前に脅されたディオンは、彼らの隠れ家でロボットに人工知能を埋め込む。それは赤ん坊と同じようなプログラムで徐々に成長していくことになっていた。

こうしてギャングたちに育てられることになったロボットは「チャッピー」と名付けられる。やがて高度な知能さえも身につけたチャッピーは、自分の機械仕掛けの身体と、意思ある心の間で悩み、やがては世界そのものに対して大いなる疑問を投げかけることになる。



レビュー

人工知能はやがて「楽園」を乗っ取るのか?:

まず本作『チャッピー』の、日本での公開に際するレーティング上の問題で配給元が自主的に暴力描写を取り除いた件に言及すれば、製作者の意思が最大限尊重させるべきという前提に立ちつつも、さほど大きな問題とはならないと感じた。オリジナル版を観たが、日本のレーティングに引っかかる残虐描写はおそらくラスト付近の一箇所のみで、物語が劇的に展開する部分のワンシーンであるため、それがなくても違和感はないだろう。もちろんこの騒動に関しては不手際が目立ったのも事実だが、それだけを理由にして本作を「観る気が失せた」とか言う人はそもそもバッシングに加わりたいだけの野次馬でしかなく、映画会社はそういった連中に配慮する前にもっと耳を傾けるべき相手がいるだろう。

本題のレビューに移ると、本作『チャッピー』は人工知能を巡る生命倫理の問題を扱っている諸作品、例えば『2001年宇宙の旅』や『ブレードランナー』や『マトリックス』といった映画作品から、日本のアニメーション(『攻殻機動隊』や『アップルシード』)、そして無機物に生命が宿る古典物語(『ピノキオ』や『フランケンシュタイン』)といった膨大な過去作を引用し、横断し、土台とすることで物語が展開していく。

意思あるロボットと人間との違いとは何だろうか、という現代的な問題を『第9地区』のニール・ブロムカンプ監督らしい切り口で問いかける本作は、生命倫理の分野における社会的同意形成をずっと後ろに従える形で進行する人工知能の今、そしてその未来を示唆的に描いている。「人間とは違うモノ」の悲しみや孤独や脅威が、現実社会に影響した場合のシナリオでもあり、それは決して遠い未来の話でもないのだろう。

そしてこの『チャッピー』が、前述したような過去の「人間と意思とその他の存在」を巡る物語を本作の基礎とした理由を考えると非常に興味深い全体像が浮かんでくる。

赤ん坊として生み出されたチャッピーはやがて成長し、世界の矛盾を知ることになる。自分が望むのとは違った形で世界と向き合うことが強制され、やがてはその世界から追われ、石を投げられる。これは『チャッピー』だけの物語ではなく、『ブレードランナー』も『フランケンシュアイン』も一緒である。チャッピーもレプリカントもフランケンも 、言うなれば 「神」によって作られた存在であるが、「楽園」で暮らすことが許されなった存在でもある。それは旧約聖書で描かれる人間たちの受難と意味的には同じであり、本作では原初の「作られたモノ(人工知能)」たちの追放と受難を描いていると受け取れる。旧約聖書で描かれた「人と神」との関係が「チャッピーー(≒人間)と人(≒神)」に置き換わっているのだ。つまりは人間が神らしい存在となってしまった世界を描いており、その主役とは、旧約聖書の主役が神でないように、すでに人間ではなく、自由意志を持ったロボットが担っている。そして旧約聖書が物語的には似たようなストーリーが並べられているのと同じように、本作『チャッピー』も、人間が神となり、意思あるロボットたちが人間となった世界における、ロボットたちの受難を描いた壮大な叙事詩の一編となっている。それも位置的には全物語の終わりに近い一編であり、本作の前には前述したような、本作が土台としたような先行作品が位置している。

本作はただチャッピーが人間になりたいと願うだけの物語ではなく、そもそもチャッピーにとっては自分こそが人間であり、人間が神となってしまった矛盾を炙り出している。神と人間とは常に二元論的な関係にあり、そこに別の一元となり得るロボットが関与してしまった場合、社会はどう変容するのだろうか。神という存在がその非言及性によって崇められている以上、人間とロボットは共存するか、どちらかを滅ぼすかしなければ、この二元論的世界を維持できなくなってしまう。そしてもし仮に三元論的世界観の構築に成功したとしても、それを語るのは人間ではなく人工知能の方だろう。一元論的世界の楽園から追放された人間がこの世界を作ったように、次の世界を作るのは人工知能であるという恐ろしく自明な事実を本作を突きつけてくる。

ニール・ブロムカンプ監督作品らしく、テーマや物語の展開力は非常に新鮮である。一方で、これも彼らしいのだが、プロットの細部には強引さも目立つ。しかしそういった欠点を覆い隠すほどに、本作の幕の閉じ方は示唆的だ。もし仮に100年後くらいに人工知能が支配する世界が登場した時には、きっと本作もロボットにとっての聖書の一編に追加されるだろう。すでに言及した作品以外にも、『スタートレック』やオリジナルの『トータル・リコール』や『アイアン・ジャイアント』も、もしかすると『トランスフォーマー』も追加されるかもしれない。最近だとジョニー・デップが主演した『トライセンデンス』は燃やされるだろう。

旧約聖書の最初に登場する「創世記」ではアダムとエヴァは楽園から追放されてしまった。しかし人工知能を持ったロボットである彼らは、おとなしく人間の暮らす楽園から出て行ってくれるだろうか。追放されてくれるだろうか。もしかすると彼らは「楽園」に居座り、人間を追放するのではないだろうか。

その答えの鍵が本作のラストなのかもしれない。

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ということで『チャッピー』のレビューでした。日本公開直前ですが、この記事を公開するの忘れていました。 『エイリアン』の最新作にも関与することは決定しているブロムカンプ監督ですが、一般公開作として3作目でありながら、すでにオリジナルな作家性が炸裂しています。もちろん本作はおすすめです。前作『エリジウム』で期待はずれ感を味わった方も是非とも本作は見てください。ラストが秀逸です。

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