戦地から遠く離れた場所から遠隔操作で爆撃するドローンという新技術を通して倫理の葛藤を描く『アイ・イン・ザ・スカイ 世界一安全な戦場』のレビューです。「トロッコ問題」的な思考実験が実際に引き起こす倫理の揺らぎ。答えなき問いの葛藤の末にある未来とは?
『アイ・イン・ザ・スカイ 世界一安全な戦場』
日本公開2016年12月23日/サスペンス/102分
監督:ギャビン・フッド
脚本:ガイ・ヒバート
出演:ヘレン・ミレン、アーロン・ポール、アラン・リックマン、バーガッド・アブディ、イアン・グレン
レビュー
マイケル・サンデル教授の「ハーバード白熱授業」でも議題にあがった思考実験に「トロッコ問題」という問いがある。線路を走るトロッコが制御不能となりこのままでは線路前方にいる5人を轢き殺してしまう。その時、線路のちょうど分岐点にあなたがいて、今トロッコの進路を変えれば5人は助かる。しかし予定外の線路にはひとりの作業員がいて、進路を変えれば彼が死んでしまう。さてどうする?
簡単に要約すれば「多数を救うために、一人を殺すことは許されるのか」という問題だ。設定は電車の線路上や、多数の患者を前にした一人の医師などなど様々に分岐していくのだが、詰まるところ、この問いに明快な答えはない。
多数を助けるために一人を殺すという決断も、逆に多数を見殺しにしてひとりを助けるという決断も、いずれにせよ反証と批判にさらされることになり、「全員が納得する」という意味での回答はそもそも存在しない。
つまりこの問いはあくまで思考実験のためのものだ。思考実験とは、これまで当たり前と思われていた常識を揺り動かし、疑問すら抱かぬままに過ごしてきた固定観念を改め、新しい価値観の芽生えを促すもので、そのためには現実ほどよく離れた仮定の状況を設定することが望ましい。結論を導き出すことが目的ではなく、その問いを通して価値観を問い直すことにこそ思考実験の意味がある。
しかしこの「トロッコ問題」はもはやただの思考実験ではなくなっている。実際の決断を必要とする現実の問題として、ロンドンで、ナイロビで、そしてラスヴェガスで、日々行われていることを訴える作品が『アイ・イン・ザ・スカイ 世界一安全な戦場』だった。フィクションではあるが、設定は思考実験というフィクションを超えて、現実世界で実際に起きた出来事に忠実に進んでく。
誰を何のために殺すことが正義なのか?
ヘレン・ミレン演じるイギリス軍司令官のパウエル大佐は、東アフリカを拠点とするイスラム過激派アル・シャバブの幹部でイギリス人女性テロリストの行方を探していた。そしてケニアのナイロビでの内偵とアメリカ軍がラスヴェガスから操縦するドローンによる捜索によって、ついにその居場所を突き止める。彼らは今まさに自爆テロを起こそうとしている最中であり、パウエル大佐はすぐさまドローンによる空爆を伝令する。
しかしその時、空爆のターゲットとなる建物のすぐそばで、ひとりの少女がパンを売り出した。
今、空爆すればその少女はほぼ間違いなく死ぬことになる。一方で今空爆を中止すれば、テロリストたちはさらなる犠牲者を生むことになる。
空爆をするか、それとも中止するか。
軍人、政治家、法律家、そして空爆のボタンを実際に押す兵士。彼らのそれぞれの「正義」と「倫理」は戦場から遠く離れた場所で激しくぶつかり合う。
命の選択は誰が下す?
本作と似た設定の映画にイーサン・ホーク主演の『ドローン・オブ・ウォー』という作品がある。ラスヴァガスの冷房の効いた一室からアフガニスタンの戦場に爆弾を落とす「パイロット」役をイーサン・ホークが演じ、ゲーム化する戦争の倫理の崩壊を描いた作品だった。近代的な戦争の姿が形骸化し、現場は技術の発展に伴ってひたすら進化していくのに対し、倫理や道徳といった観念的ルールはいつまでたっても近代で足踏みしている矛盾をテーマにしている。
現実に戦争はもうゲームになっている。しかしゲームと違いスクリーン上のターゲットマークに向けて爆弾を発射することで、本当に家は破壊され、人間も当然死ぬ。ゲームと現実との間で人の生き死にがリアリティを失っていく恐怖。
本作『アイ・イン・ザ・スカイ 世界一安全な戦場』では『ドローン・オブ・ウォー』で描かれたような個人の倫理の揺らぎから一歩踏み込んで、一体誰が生き死にを判断するのかという、「トロッコ問題」でも見られる決断の行方について描かれる。タイトルにある「アイ・イン・ザ・スカイ/空の眼」という表現はもちろんドローンも指すのだが、同時に「神の視点」も意味していることは明らかだ。
幼い少女と、大量虐殺を企てるテロリスト。正反対の性質を持つ両者の運命は、ドローンという空からの視点から見ることで皮肉にも重なってしまうことになる。それは 旧約聖書の神が引き起こした大洪水や飢饉という人類に対しての罰とほとんど同じ視点から生み出されている。しかし前者はドローンという機械による爆撃だとしても、それを操作し命令するのは人間だ。
劇中で、この「トロッコ問題」のいずれかを選ばなければならない切迫した状況のなかで、軍人、政治家、法律家はそれぞれの立場から意見することで決断はひたすら先延ばしされることになる。それは見方によればそれぞれの職業の信念のぶつかり合いでもあるが、同時に自分が決断を下すことへの躊躇いとも受け取れる。
しかしどれだけ迷おうが、時間は止まらない。決断を下すタイミングは確実に迫っていく。
劇中、ヘレン・ミレン演じる爆撃支持派の大佐は、反対する立場の政治家や法律家を説き伏せるために持ち出したのは、倫理でも道徳でも人間としての道理でもなく、少女の死亡率という数字だった。ある一定より高い死亡率が算出されれば爆撃は中止となり、それより低ければ爆撃が認められる。
しかしこの決断に果たして人間としての意志はあったのだろうか?
この経緯で思い出されたのは近代戦争の殺傷性の推移だった。第一次大戦では対人での殺傷は3割以下だったと言われる。当時の兵士は目の前に敵兵が現れても、銃口を向けて撃ち殺すという行動がとれなかった。兵士とは言え、彼らは人間だった。しかしこれが第二次大戦、そしてベトナム戦争と地上戦の規模が拡大していくほどに、兵士たちは躊躇なく敵兵を撃ち殺せるようになっていく。政府は兵士を人間ではなく機械として訓練することで、敵兵を躊躇いなく殺せるように変えていく。結果、戦争の後には大量の死者と、もぬけの殻となったような元兵士が生産される。
本作で描かれる恐怖感の源とは、神にもなれない人間がそれでも神の行為を肩代わりしようとした結果、その重荷に耐えきれなくなり大部分の判断を機械に委ねているという現実だった。それでもまだ本作で爆撃のボタンを押すのは人間だった。そして現場の兵士たちは平等に人間性をすり減らしていく。彼らは爆撃の現場にはいないが、同時に政府から機械になることを求められるという意味では、過去の戦場の兵士たちと変わらない。
そして本作のラストを観るに、やがてそのボタンさえも人間は放棄するときが来るのだろうか?
機械(=人工知能)が人間の生き死にを判断する未来。そんなディストピアは実はもう世界のどこかで実現してしまっているのかもしれない。
『アイ・イン・ザ・スカイ 世界一安全な戦場』:
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