クエンティン・タランティーノ監督最新作『ヘイトフル・エイト』のレビューです。監督自身が「最高傑作」と語った、信用できない8人の男女が織りなす傑作密室ミステリーがここに完成。そして音楽は「マカロニ・ウェスタン」の象徴ともいえるエンニオ・モリコーネが担当。
『ヘイトフル・エイト/The Hateful Eidht』
全米公開2015年12月25日/日本公開2016年2月27日/ミステリー/167分
監督:クエンティン・タランティーノ
脚本:クエンティン・タランティーノ
出演:サミュエル・L・ジャクソン、カート・ラッセル、ウォルトン・ゴギンス、ティム・ロス、マイケル・マドセン、ブルース・ダーンほか
解説
大雪のため閉ざされたロッジで繰り広げられる密室ミステリーを描いた西部劇。タランティーノ作品常連のサミュエル・L・ジャクソンを筆頭に、カート・ラッセル、ジェニファー・ジェイソン・リー、ウォルトン・ゴギンズ、デミアン・ビチル、ティム・ロス、マイケル・マドセン、ブルース・ダーンが出演。全員が嘘をついているワケありの男女8人が雪嵐のため山小屋に閉じ込められ、そこで起こる殺人事件をきっかけに、意外な真相が明らかになっていく。
レビュー 血まみれの駄話映画
脚本が流出する事態を乗り越えながらもクエンティン・タランティーノ最新作『ヘイトフル・エイト』は、これまで以上にヴァイオレントで、これまで以上に無駄話が盛り込まれた、一風どころか二風三風と変わった西部劇として完成することとなった。そして本作はタランティーノにとって8作目の長編作品であり、本人が最近になってよく口にする「10作撮ったら引退します」という言質を真に受けるのなら本作は最後の3本目ということになる。
舞台は南北戦争後の雪深いアメリカ開拓時代の西部ワイオミング。賞金稼ぎの黒人マーカスが、女犯罪者を連れて町へと向かう死刑執行人が乗る馬車をヒッチすることからはじまる。そこからはタランティーノ映画の真骨頂ともいうべき駄話とスラングと暴力が繰り返され、新たな登場人物を迎えることで全6章からなる物語の最初の章が終わっていく。
『デス・プルーフ』が中身のないガールズ・トークとカーアクションの映画だったように、本作の序盤は物語の主要人物による駄話と暴力によって構成されており、この最初のパートで本作の主だったトーンは決定付けられている。それはエンニオ・モリコーネによるマカロニ風音楽と、8トラックで録音されたザ・ホワイト・ストライプスの「apple blossom」の関係のように、背景は全く違っていてもどこかで時代を超えるような類似性を醸し出し、女を容赦なく殴りつけるマカロニ的世界と、そのマカロニ的世界から出発した権威ある黒人も結局は鎖に繋がれるタランティーノ的世界との関係を示唆している。ちなみに本作はデジタル嫌いのタランティーノが70mmでのアナログ上映に合わせて、「ウルトラ・パナビジョン」という『ベン・ハー』などに使用された70mmフィルム用のアナモレンズを使用した方式が採用され、これまでにないほどの横長アナログ映像で撮られている。
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山深きロッジで起きた密室ミステリーというのが本作の最も簡単な要約となるだろうが、実はなかなかこの密室ミステリーにはたどり着かない。物語の舞台となるロッジにたどり着くまでにひたすら駄話が繰り広げられる。もちろん登場人物の紹介という側面はあるが、この序盤で『パルプ・フィクション』などで知られるタランティーノの「物語のための会話ではなく、登場人物のための会話」を楽しめるかどうかで観客の集中力も淘汰される。
馬車の主人と女の罪人、そして黒人の賞金稼ぎに白人の保安官が乗り込み、物語のための会話ではないただの会話が延々と繰り広げられる。そしてここにこそ物語の伏線が込められていることも推測できるから油断もできない。しかもこの会話のテンポが近年のタランティーノ作品にあっても最高クラスにテンポがいい。人種や性別、そして社会的立場が散々に揺さぶられる。ダルさと緊張感が微妙に入れ替わったところで第2章が終わる。そしてやっとロッジに到着する。
タランティーノ監督はよく「ポスト・モダン」な映像作家と呼ばれることがあるが「ポスト・モダン」という言葉の説明が面倒なので、思い切って意訳して「頭のいい方法論でバカをやってみました」ということで良しとしよう。「記号論的」とも称される彼の引用やオマージュの連続も、時間軸に捉われない物語構造も、本来は意味を持つべきはずのクローズアップでの会話シーンやアクションでさえもただただ無意味に消費される反映画的な要素も、タランティーノ監督の手になると一気に芸術臭が消えてバカが強調されるようになる。
こういったタランティーノの作家性を考えるとき、思い出されるのが大島渚らが牽引した日本における映画革命いわゆる「日本ヌーベルバーグ」というヤツだ。暴力や性をこれまでの物語の役割から解放することを目指した「頭のいい」大島や篠田正浩や鈴木清順だったった。しかし実際には彼らもくそまじめな映画ばかりを撮っていた訳ではなく、なかにはかなりタランティーノ的にバカな作品も多く、特に1961年の篠田正浩監督、寺山修司脚本の『夕日に赤い俺の顔』なんかはかなりバカなコメディなのだ。まあ、こういう話は本作のレビューとはきっと何の関係もない。
さて一行は吹雪を避けるためにロッジに到着するのだが、ここからやっと物語は本題へと近づいていく。馬車のなかでの会話劇から、今度はロッジ内での会話劇へとシーンは移行される。70mmフィルムカメラでの撮影だったことも関係しているのだろうが、物語のほとんどは屋内で繰り広げられ、激しいアクションがないことからもカメラもほとんど動かない。そのため『イングロリアス・バスターズ』や『ジャンゴ』に比べると映像的な激しさはなく、その分、「憎き」登場人物たちの個性の演出に作品の可否の大部分は委ねられることになる。そしてカメラが動かせないことがどこまで関係しているのかわからないが、個性表現としての暴力シーンは激しくなっている。主要キャラクターらの個性を切り分けるために、それぞれの特徴は大げさに演出され、きっとこの「大げさな演出」が今回の『ヘイトフル・エイト』の好みを分けることになるだろう。何せ、アクの強い「憎むべき」面々によって繰り広げられる舞台劇すれすれの映画を、2時間40分もの長尺で見ることになるのだ。正直言って、途中はケツが痛くなった。なかなか殺人も起きなし、テンションに差はあれど続いているのは駄話だけなのだ。しかも登場人物すべてが信用ならない語り手のため、どれが真実でどれが嘘なのか、というよりもこいつらの口から出る言葉はたとえ真実だとしても嘘としか聞こえないような胡散臭さがプンプン臭ってくる。
しかし1時間半ほど待てば徐々にこの映画の底意地の悪さが伝わって来る。徐々にそれまでの駄話が伏線の糸となって物語へと編み込まれていく。それまでの会話劇で演出されたそれぞれの個性が「憎むべき」一点に集約されていき、特に4章以降はタイトルにある通り、こいつらがどれほどまでに「憎むべき」男女なのか、それが痛いほどに伝わってくる。そして残り30分ほどは血まみれの連続なのだ。正確には血まみれの駄話だ。しかもかなり不謹慎な血まみれの駄話だ。血を浴びれば浴びるほどに高揚していくスラップスティック。そこにこれまでの会話のなかから炙り出されるミステリーが合わさる様は見事の一言だった。
そして物語は予想のずっと外側にあった感情で終わっていく。何気ない会話のなかに潜んでいた伏線のなかでも取り分け重要なひとつの要素が予想外の反応を生む。最高に不謹慎なシーンのあとにこんな終わり方ができるなんて、これはもうタランティーノの手腕としか言いようがない。
本作の後半部分に関してはなるべく情報を入れない方がいい。物語の大枠そのものは非常にシンプルなのだが、それぞれの登場人物の背景が絡み合ってラストに行き着く過程の細部は非常に込み入っている。そして70mmフィルムの映像によって描かれる物語の細部は非常に美しく、何度でも見たくなるようなシーンの連続だった。サミュエル・ジャクソンによる回想シーンと、ラストのスラップスティックなシーンはタランティーノ監督の歴代名シーンに数えられるほどの芸術的悪ふざけだ。
それでもやはり2時間45分という上映時間はきつい。特に前半部分は、後半への助走だと分かっていても冗長な印象は消えない。フィルム上映に関してはさらに20分伸びて3時間を超えるというのだから、よっぽどのタランティーノ・フリーク以外にはかなり厳しいのではないか。それでもこれ以上何を付け足すのか気になって仕方がない映画であることは間違いないのだが。
『ヘイトフル・エイト』:
ということでクエンティン・タランティーノ監督最新作『ヘイトフル・エイト』のレビューでした。なんともコメントし難い映画で、率直な印象としては「タランティーノ映画、ここに極まり」という感じなんですが、似たような内容のタランティーノ作品として『レザボア・ドッグス』と比べれば露悪的な時間が長すぎると感じました。黒人が白人にアレさせるシーンなんでも、くどいくらいに長く引っ張るから途中からちょっと我に返ってしまうことになりました。また本作に関して2014年に流出した廃棄バージョンの脚本を読んでいたためにどうしても変更点が気になってしまい純粋に物語に没頭できていなかっと言えるかもしれません。でもラストは言葉を失うくらいに見事でした。長いけど、おすすめです。以上。
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