ヴェルナー・ヘルツォーク監督作『アラビアの女王 愛と宿命の日々』のレビューです。1900年代の中東を舞台に、実在の英国人女性ガートルード・ベルをニコール・キッドマンが演じる伝記映画。アラビアのロレンスをロバート・パティンソンが、ベルの婚約者をジェームズ・フランコが演じる。
『アラビアの女王 愛と宿命の日々/Queen of the Desert』
日本公開2017年1月21日/伝記ドラマ/128分
監督:ヴェルナー・ヘルツォーク
脚本:ヴェルナー・ヘルツォーク
出演:ニコール・キッドマン、ジェームズ・フランコ、ダミアン・ルイス、ロバート・パティンソン
レビュー
『アギーレ/神の怒り』(1972)では常軌を逸した厳しいロケ撮影に頭がおかしくなっていく出演者をそのまま物語の登場人物としてカメラで追いかけまわし、『フィツカラルド』(1982)では重量300トンを超える蒸気船を「本当に」出演者に担いで山を越えさせるという荒業を課してきたのがヴェルナー・ヘルツォークという監督で、この人ほど「鬼才」という表現がぴったりくる監督もいない。最近ではアニメ映画『ペンギンズ FROM マダガスカル』で良い映像を撮るためにわざとペンギンを崖から突き落とす鬼畜な監督の声を担当していたが、それさえも生ぬるいと思えるほどに彼の作品には狂気が映っている。
そんなヘルツォーク作品の代名詞といえば、監督に負けず劣らず頭のおかしい怪優クラウス・キンスキーとのタッグ。ナスターシャ・キンスキーの父親で、実の娘に性的暴力を繰り返していたとも告発された筋金入りの問題俳優だが、『アギーレ/神の怒り』にせよ『フィツカラルド』にせよ彼の存在なくして物語の狂気は成立しなかった。そしてヘルツォークとクラウス・キンスキー最後のタッグ作となったのが、上記の2作と比べるとあまり知られていないが『コブラ・ヴェルデ』という作品だ。
西アフリカのダオメー共和国を舞台に、実業家から奴隷商人へと成り上がっていく男の野望と荒廃と狂気を描き、ラストには奴隷を送る船が出る海岸で、たったひとりで船と格闘するクラウス・キンスキーの狂気の終わりが印象的な作品だ。そして『コブラ・ヴェルデ』には原作がある。『ウィダの総督』という小説で著者は旅行作家のブルース・チャトウィン。原作と映画とはほとんど違う内容となっているが、悲しみのなかで幕が閉じられてくラストだけは共通している。
ヴェルナー・ヘルツォークの最新作『Queen of the Desert』は実在の女性旅行家ガートルード・ベルの伝記映画でありながらも、移動の中にしか自分の居場所を見出せない人々の悲哀を大規模なロケ撮影で描き出すという意味では、70年代から80年代にかけてのヘルツォークの代表作を彷彿とさせる。『アギーレ/神の怒り』も『フィツカラルド』そして『コブラ・ヴェルデ』も故郷から好んで遠ざかっていく人々の悲哀を描いているが、それは監督自身のドキュメントでもある。なぜ自分はこれほどまで過酷なロケをするのか、という疑問はそのまま物語のテーマとなっている。
ではなぜわざわざブルース・チャトウィンという旅行作家を引き合いに出したかというと、彼もまたヴェルナー・ヘルツォーク自身と、そして彼の代表作に描かれる人物と同じように移動の中にしか居場所を見いだすことができず、その想いを物語として書き留め続けた人物だからだ。『パタゴニア』では自分の祖先にその理由を求め、『ウィダの総督』では実在した奴隷商人の一族の勃興と終焉のなかに自分の姿を探し、そして自身の死を意識しながら書かれた『ソングライン』ではオーストラリアの原住民アボリジの旅にこれまでの旅の記録を重ね合わせた。それは『コブラ・ヴェルデ』という一作の偶然で繋がった関係ではなく、互いの作家性が深い部分で連動している証左に思える。
本作でニコール・キッドマンが演じる砂漠の女王との異名も持ったガートルード・ベルとは、良家の娘でありながら1900年代の中東地域を旅して回った旅行家であり、考古学者であり、イギリスの情報員でもある、いわばスーパーウーマンだった。そして20代で退屈なイギリスの社交界に見切りをつけてテヘランに赴き、そこから今のイラク、トルコ、シリア、ヨルダン、そしてサウジアラビアまでの中東各地をラクダに乗って旅で回ることになる。
ガートルード・ベルとは砂漠のなかで生きた女性だった。砂漠の中でしか生きられなかった。劇中、砂漠の遊牧民であるベドウィンの生き方を彼女が「威厳に満ちて、詩的で美しいもの」と賞賛するシーンがある。それはヘルツォークが『アギーレ/神の怒り』など代表作で度々描いてきた「西洋ならざる文化の神話化」への監督自身の想いとも重なる。「オリエンタリズム」という上っ面の憧れや共感とは違い、砂漠の異文化が自分自身と同化していくような感覚をきっとガートルード・ベルは抱いていたのだろうし、ヘルツォークもそれを描きたかったのだろう。
しかし、ニコール・キッドマンはクラウス・キンスキーではなかった。当たり前のことだが、その違いは作品の質そのものに大きく関係してしまっている。
イランのゾロアスター教の墓場である沈黙の塔を前にしたジェームズ・フランコ演じる婚約者とのラブシーンは、それこそ『アラビアのロレンス』を彷彿とさせるようなクラシカルな演出が光ってはいたものの、実年齢で50歳に近づくニコール・キッドマンが20代の女性を演じていることもあり、ヘルツォークらしいロケ撮影の臨場感を優先したために太陽光のまえでは違和感が強かった。
それはニコール・キッドマンの演技が浮いていたということではなく、ヘルツォークという作家の気配が美しい映像や完璧な1900年代アラビアの再現に限られ、本来はその気配で埋め尽くされるはずの物語部分での情熱が、彼の代表作と比べるとあまりにも淡白すぎたせいだ。これは実話だから仕方がないと擁護する人は2010年のヘルツォークのドキュメンタリー『世界最古の洞窟壁画 3D 忘れられた夢の記憶』を観るべきだ。ヘルツォークがその気になれば3万年前の洞窟にだって、「W・H」の印を焼き付けることができる。
一方で本作でアラビアのロレンスことT・E・ロレンスを演じるロバート・パティンソンは、彼こそがヘルツォークの被写体となるべきだと確信するほどに魅力的だった。本作では描かれないがガートルード・ベルはイラクの建国に関わる一方で、現在もイラクに残るシーア派の反発の原因を作るなど歴史的な評価は別れる女性だが、それはロレンスも同じこと。ニコール・キッドマンのただ強く美しい砂漠の女王よりも、ロバート・パティンソンの裏表を抱えた砂漠の反乱者の方が物語として見たかったと正直に思った。
本作をひとりの女性の大河ドラマとして観る分には文句はない。大掛かりなロケや、1900年代のアラビアの再現、そして愛した男たちが別れの言葉もないままに死んでいくガートルード・ベルの悲しみの描き方は評価に価する。それでも砂漠の中でしか生きられない彼女の悲哀に関してはあまりにストレート過ぎてわざわざ語るほどでもなかった。
なぜ彼女は砂漠に魅せられたのか?
その理由を彼女の半生を通して描き切れたかと言えば疑問が残る。
ちなみにブルース・チャトウィンも砂漠に魅せられたひとりだ。オークションの老舗サザビーズで働き、巧妙な贋作を見破るなど顕著な業績を残した彼だが、ある時から徐々に視力が落ち始めてしまう。原因が分からず、医者に勧められるままに休暇をとり、そして東アフリカの遊牧民たちと砂漠を旅する。するとたちまち彼の視力はもとに戻ったという。
おそらくガートルード・ベルもこのような砂漠の神秘に触れていたはずだ。だからこそ彼女は砂漠でしか生きられなくなったのだろうが、残念ながら本作ではそれを描き損ねていた。
『Queen of the Desert』:
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