『スノータウン』のジャスティン・カーゼル監督が挑んだシェークスピア原作『マクベス』のレビューです。マイケル・ファスベンダーとマリオン・コティヤールの熱演に圧倒されつつ、黒澤明の『蜘蛛巣城』からも大きな影響を受けた現代の『マクベス』の狂気。
『マクベス/Macbeth』
全米公開2015年12月4日/日本公開2016年5月13日/ドラマ/113分
監督:ジャスティン・カーゼル
原作:ウィリアム・シェークスピア『マクベス』
脚本:ジェイコブ・コスコフ、トッド・ルイーソ、マイケル・レスリー
出演:マイケル・ファスベンダー、マリオン・コティヤール、パディ・コンシダイン、ショーン・ハリスほか
レビュー
第一幕、マクベス(マイケル・ファスベンダー)とその夫人(マリオン・コティヤール)の幼い子供の葬式ではじまる。そしてマクベスは国王ダンカンの命で戦場へと赴く。戦いには勝つものの、従軍していた多くの兵士たちは死んでいった。そこに3人の女と、ひとりの少女が現れる。戦いの後始末をしているマクベスとバンクフォーに近づく女たちは、素性を明かすことなく、「万歳、王たるマクベスに。万歳、王の父親となるバンクフォーに」という不思議な言葉を残し、ただ去っていく。
青空など滅多に見ることのできないスコットランドの曇り空を背景に、泥と血にまみれながらの戦闘シーンには黒澤明が『蜘蛛巣城』をデジタルでセルフリメイクしたようなリアリティと映像美のアップデートが見られる一方、スローモーションやドローン撮影を加えることでロマン・ポランスキーが監督した血みどろの『マクベス』とは違い、生々しい暴力も一歩引いた視線で冷たく描かれている。マクベスが女たちの言葉を伝言で妻に伝えるシーンでは、十字に型抜きされた教会の壁から光の十字架が浮かび上がることで、マクベスが王になるという言葉がいつの間にか予言へとすり替わっていく過程を見事に表現している。。
そしてマリオン・コティヤール演じるマクベスの妻は、オープニングで描かれる愛息の死を黒魔術的に弔うようにして、マクベスが予言通りに王となるべく国王ダンカンの暗殺を企てる。
ストーリーはシェークスピアの『マクベス』に忠実に進んで行く。国王殺害の嫌疑がマクベスの狂気に恐れおののき逃げ去った王子マルコムにかけられたことで、新国王にはマクベスが指名される。そして後はマクベスと夫人の暴走と混乱が描かれ、魔女たちの予言通りの結末が待っている。
『マクベス』はシェークスピアの戯曲のなかでも短い作品とあって映画との相性は良く、これまでオーソン・ウェルズ(1948年)、ロマン・ポランスキー(1971年)の作品が広く知られ、そして黒澤明の『蜘蛛巣城』(1957年)も舞台を戦国時代に移した『マクベス』である。そしてこれまで長編映画は一本しか撮っていないジャスティン・カーゼル監督作品となる本作は、前述の綺羅星のような巨匠たちの作品にも堂々と伍する刺激的な『マクベス』に仕上がっていた。
ジャスティン・カーゼル監督作品の『スノータウン』(2011年)は気安く鑑賞を勧めることがためらわれるほどに陰鬱な作品だった。オーストラリアで実際に起きた猟奇殺人事件をベースとし、劣悪な家庭環境のなかで虐げられてきた少年の苦しみが、救世主のように突然現れた優しげな男の猟奇殺人の動機と同化してしまい、やがては被害者だった少年自身が大量殺人へと加担していくという、どこを探しても出口のみつからない作品だ。そこでもカンガルーの解体や犬への虐待など多くの血が流され、性的異常者たちはそのカンガルーや犬の延長線上として容赦なく殺されていく。そして劇中では首を絞め殺される男の窒息感がいちいち丁寧に描かれ、見ているだけでも息苦しくなる。
しかしジャスティン・カーゼル監督作の『マクベス』を見ると、彼がなぜ長編デビュー作でそのような題材を選んだのかという理由が、必ずしもその残虐性や異常性にあるのではないことにはたと気づくことになる。
シェークスピアの『マクベス』に登場する魔女は3人だったが本作では3人の成人女性の他に一人の少女が登場する。
王となったマクベスは女たちの予言に対抗するように、バンクフォーとその息子の暗殺を企てる。森の中でバンクフォーの殺害には成功するも、その幼い息子は逃してしまう。森の中で追っ手から逃げるバンクフォーの息子フリーアンスの前に突然現れ、彼を霧の中へと誘い込むのは、3人の女たちのそばにいた少女だった。つまりこの少女は「バンクフォーの息子が王になる」という予言を見守る存在だと言える。
そしてシェークスピアの『マクベス』に戻ると、そのテーマの普遍性とは「殺人者の弱さ」ということになるのだろうが、同時代的にはシェークスピアが『マクベス』を王政の世継ぎ問題がもたらす社会不安と重ねて書いていることは間違いない。当時のエリザベス女王には世継ぎがいなかったためイングランドの王権はチューダー朝からスコットランド王ジェイムズ6世のスチュワート朝へと移譲される。このルネサンス期イングランドの社会不安とは王の子供の存在に起因し、シェークスピア自身も唯一の息子を失っている。
ジャスティン・カーゼル監督作の『マクベス』では「子供を失った」という事実がことさら強調されている。冒頭に埋葬されるマクベスの子供にはじまり、戦場で死んでく少年兵、そして魔女らしき3人の女が抱える乳飲み子。それらは全て死ぬべきでない存在として登場するも、結果としてマクベスは直接的にも間接的にも子供らを殺す存在としてその狂気が描かれる。
『マクベス』の狂気とはジャスティン・カーゼル監督の前作『スノータウン』に登場した猟奇殺人鬼の行動と同じであり、心理面では殺人鬼の動機となってしまい事件に巻き込まれ感情を失っていく少年と同じとなっている。『スノータウン』の殺人鬼が異常性愛者をターゲットに殺人を繰り返したのは「子供を作らない行為」に対しての嫌悪であり、ひいては「子供を失っていく」ことが感情の劣化の原因となっている。
『マクベス』も『スノータウン』も子供への過剰なまでの執着という点でほとんど一致している。そしてジャスティン・カーゼルが『スノータウン』を監督した理由というのも、その題材となった事件の中にマクベス的な狂気を見出したからなのだろう。
それはポランスキーを『マクベス』へ向かわせた動機とも似ているのだが、彼の場合は妻と子供を殺されたマクダフと同じであって(ポランスキーが『マクベス』を監督したのは妻子をカルト教団に殺された後)、マクベス的暴力性への屈折した怒りが特にダンカン王殺害シーンでは如実に見て取れるのに対し、本作では血生臭いシーンも美しい映像のなかに取り込まれているため過激さも和らいでいる。言うなればポランスキーの怨念が黒澤の映像美によって中和されているような印象だ。
そして何よりもマクベスを演じたマイケル・ファスベンダーの演技にはほとほと圧倒されることになる。地位を失うことを恐れる「小心者」マクベスという一般的なイメージとは一線を画し、自分が何を恐れているのかさえもわからない狂気の泥沼のなかに徐々に入り込んでいく過程を見事なグラ デーションで演じていた。そしてマリオン・コティヤール演じるマクベスの妻も『蜘蛛巣城』での山田五十鈴を彷彿とさせるアウラを放つほどの存在感だった。
ジャスティン・カーゼル監督作は、特に映像面で、明らかに黒澤の『蜘蛛巣城』を強く意識しているし、ポランスキーの『マクベス』からも強い影響を受けている。しかしどちらにも偏ることなく、その折衷する部分に前作『スノータウン』のDNAを見出すことでジャスティン・カーゼル監督作としてのオリジナリティも発揮している。
400年前の作家の書いた戯曲が現代に再現されるように、映画のDNAもまた狂気のような執念で継承されていくということなのかもしれない。
『マクベス』:
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