ティム・バートン監督がランサム・リグズ原作のベストセラー小説「ハヤブサが守る家」を映画化した『ミス・ペレグリンと奇妙なこどもたち』のレビューです。「普通ではない」という才能を持った少年少女たちが時空を超えて圧倒的悪と戦うミステリアスファンタジー。『シザーハンズ』『ビートルジュース』を彷彿とさせるティム・バートンらしい作品。
『ミス・ペレグリンと奇妙なこどもたち』
全米公開2016年9月30日/日本公開2017年2月3日/ファンタジー/127分
監督:ティム・バートン
脚本:ジェーン・ゴールドマン
出演:エイサ・バターフィールド、エバ・グリーン、テレンス・スタンプ、エラ・パーネル、サミュエル・L・ジャクソン
『ミス・ペレグリンと奇妙なこどもたち』レビュー
ランサム・リグズ原作の『ハヤブサが守る家』を映画化した『ミス・ペレグリンと奇妙なこどもたち』は、近年のティム・バートン監督作のなかでは最も「らしさ」が際立った作品となった。
まず原作の世界観や設定が、ティム・バートンの代表作との通底する部分が多い。
主人公ジェイクは、学校でも、そして家族にも馴染めない孤独な少年。唯一、彼が心許すのが、幼い頃から不思議な世界の話を聞かせてくれた、痴呆気味の祖父。ある日、祖父が謎の死を遂げたことから、その遺言に従いウェールズの離島を訪れ、かつて祖父が滞在していたという屋敷を発見する。第二次大戦のドイツ軍の空爆で破壊されたはずの屋敷だったが、ある洞窟を抜けることで、時間はその空爆以前に巻き戻され、そこでは厳格な女性ミス・ペレグリンの保護のもとで、不思議な能力を持った少年少女が暮らしていた。
空気よりも軽い少女、怪力の女の子、透明人間、蜂を操る少年など、皆が「普通ではない」子供だったが、ジェイクは祖父の昔話から彼らを知っていた。そして彼らもまたジェイクの祖父のことを知っていた。
祖父の遺言に導かれるようにしてジェイクがたどり着いた屋敷には、いったいどんな謎が隠されているのか?
「ストレンジ」でも「ウィアード」でもない奇妙さ
『ミス・ペレグリンと奇妙なこどもたち』に登場するキャラクターは敵も味方もみんな普通じゃない。この「普通じゃない」という個性が物語の重要なテーマとなっているのだが、本作ではそれを「ペキュリア/peculiar」と表現している。邦題にあるとおり「奇妙」と訳される英単語だが、意味のニュアンスとしては「ストレンジ/strange」や「ウィアード/weird」とは微妙に違っている。それぞれが「奇妙」や「変わっている」という意味を持つ言葉だが、「ペキュリア/peculiar」の場合は「他者と比較」した上で他とは明らかに違う特性のことを意味する。
例えば「変な匂い」と一言で言っても、その「変な」という言葉には「嫌な」という意味から、「これまでに嗅いだことのない」や「他に例のない」といった意味まで幅広く解釈できるが、「ペキュリア/peculiar」という表現には好き嫌いや良い悪いという程度を示す意味合いは少なく、その特異にのみフォーカスしている。
そしてこの「ペキュリア/peculiar」という表現は『ビートルジュース』や『シザーハンズ』といったファンタジー世界だけでなく、『エド・ウッド』や『ビッグ・アイズ』という現実世界の物語においても、ティム・バートンが描き続けてきた対象だと言える。
スティーブン・スピルバーグやJ・J・エイブラムスの作品に見られる「奇妙」とは正体がわからないという意味で「strange/ストレンジ」がぴったりくるし、スティーブン・キングやギレルモ・デル・トロが描く「奇妙」さとは怪奇的という意味から「ウィアード/weird」が当てはまる。しかしティム・バートンはこれまでも一貫して「ペキュリア/peculiar」な対象を撮ってきた。それ自身で完結するような「奇妙」さではなく、あくまで他者の比較でクローズアップされる奇妙さこそがティム・バートンのテーマであるし、それは「普通」の社会からはじかれるようにしてひとつの屋敷で共同生活を送る「奇妙」な少年少女たちの戦いと成長を描く原作と重なる部分は多い。
『X-MEN』+『恋はデジャ・ブ』=ティム・バートン?
本作の設定は『X-MEN』に登場する「恵まれし子らの学園」を彷彿とさせる。
目から光線を出したり、触れた相手の生命を吸い取ったり、テレパシー能力を持っていたりするミューンタントたちが、その特異性を隠さず恥じずに生きられる社会の実現を願い運営されているのが「恵まれし子らの学園」で、本作に登場する「ハヤブサが守る家」もまた特別な能力を持ってしまったために普通の社会では生きられない子供たちのために運営されている。
しかし両者には決定的な違いがある。「恵まれし子らの学園」では社会と共存する未来を描いている一方で、「ハヤブサが守る家」はひたすら社会から隔絶されることを望んでいる。
物語前半の舞台となる「ハヤブサが守る家」は1943年9月3日のドイツ軍の空爆によって破壊される。奇妙な少年少女たちが集まって暮らす平和な屋敷は、その時点で終わりを迎えるはずだった。しかし屋敷の主人で子供たちの保護者でもあるミス・ペレグリンには不思議な能力が備わっていた。彼女だけでなく「鳥」に変身できる能力を持つ者は、人間でいる限りにおいて特定の場所だけの時間を何度も繰り返す、つまりループさせることができる。
ミス・ペレグリンはこの能力を使い、1943年9月3日、屋敷に爆弾が落とされる前の24時間を、それが永遠に続くことを願いながら何十年にも渡って繰り返していた。その完全に閉じた世界だけでの幸福を誰にも邪魔させないために。「奇妙」な能力を持った少年少女だけが暮らすことを許される屋敷は、こうして何十年も外の世界を拒絶し続けてきた。
同じ1日を何十年も続ける。この設定はハロルド・ライミス監督作『恋はデジャ・ ブ』と非常に似ていて、例えば劇中で空気よりも軽い少女が毎日の日課として木から落ちてくるリスを助けるという描写は、悪事にも飽きたビル・マーレイが木から落ちる少年を毎日助けるシーンと同じ。
しかしこのタイムリープに関する設定も、『恋はデジャ・ ブ』とは決定的に違うところがある。横柄な性格が原因となってタイムリープに閉じ込められたテレビキャスターは、その毎日の繰り返しの中で損得では測れない日々の充実感を通して、やっと普通の生活に戻ることができる。しかし本作のタイムループは、普通の世界に戻らないために作られた装置として機能している。
このように本作は徹底的に「内向き」に作られている。
内向きな幸福で何が悪い?
例えば『シザーハンズ』のラストを寂しさと悲しさに満ちたバッドエンドと感じる人には本作どころか、そもそもティム・バートンの映画には共感できないのではないだろうか。一方で、確かな愛を感じながら寂しい屋敷でひとり氷の彫刻を作り続ける改造人間のエドワードの姿に、悲しみを含んだ幸福な孤独感を見出した人には、本作の「内向き」をポジティヴに感じることができるだろう。
この外に向かわず自分の内部に向けられる「幸福な孤独」とも言うべき指向性こそがティム・バートンの作家性だ。
本文冒頭に本作で描かれる「奇妙」さのニュアンスについて触れたが、彼らが持って生まれた他者との比較における「奇妙」さとは、決して外の社会の「普通」との比較だけではない。『X-MEN』 のミュータントたちが人種や性的指向を巡る差別の比喩であることがよく知られているが、本作に登場する不思議な能力を持った少年少女たちは、「普通を求められる価値観のなかでは幸福を見出せない」人々の想いを体現している。社会という大きな容れ物が強要する「みんなと楽しく過ごす」ことが幸福というスローガンにどうしても馴染めず、その社会には馴染めないという共通性で結ばれた人々によって作られる小さな共同体のなかにこそ幸福を見出す人々こそが、彼らの「ペキュリア/peculiar」を意味付けている。
普通な社会との比較ではなく、空気より軽い少女と怪力の少女との比較において彼らはそれぞれに「奇妙」なのだ。
本作に登場する「奇妙」な少年少女はそもそも「普通」な社会に居場所を求めていない。「奇妙」な性質をもった人々を前にして、一般的社会を「普通」を規定して自らをそこに含めるという前提そのものを彼らは拒否している。本作の主人公ジェイクの立場は象徴的だ。彼は時間のループのなかで暮らす「奇妙」な少年少女たちと比べて自分を「普通」と認識しているのだが、彼にとって「普通」の社会と「奇妙」な屋敷のどちらが本当に居心地のいい場所なのだろうか。
仮に閉じた社会のなかにある幸福を選ぶとしたら、それは間違った選択なのだろうか。
母性的社会へティム・バートンの欲求
本作でも描かれるティム・バートン特有の内向きな幸福論とは、つまるところ父性の欠如と母性への欲求を原因とするのだろう。『シザーハンズ』『バットマン』『アリス・イン・ワンダーランド』でもティム・バートンの映画には父親が存在しない。父親がいないことを出発とする物語が多く、例外的な映画として不在する父性と意識的に向き合ったのが『ビッグ・フィッシュ』だった。しかし『ビッグ・フィッシュ』もまた父性との関係改善の物語ではなく、消えゆく父性への鎮魂歌としては意味合いの方が強かった。
一般的に母性原理とは子を内部に宿すという意味でもその指向性は内向きであり、逆に父性原理とは同一性を浸透させるために外の世界を征服しようとする性質を持つとされる。
この父性と母性と対称性を本作に持ち込むと、「奇妙」な子供達を守る保護者たちはエヴァ・グリーン演じるミス・ペリグリンやジュディ・リンチなど女性であり、彼女たちは分け隔てなく子供達の「奇妙」さを守ってくれる母親でもある。一方でその内向きな幸福を脅かす存在を演じるのはサミュエル・L・ジャクソンである。
ちなみに主人公ジェイクの母親が本作ではほとんど登場しないことからも、ミス・ペリグリンの母性は際立つ。
本作をティム・バートン的な文脈で読み解けば、母性的で内向きな幸福を脅かす父性的な脅威に対しての戦いの物語だ。というかティム・バートンの作品は一貫してそうだ。
ティム・バートンがキリスト教的父性を嫌悪していることは、『ビッグ・アイズ』や『ティム・バートンのコープスブライド』でも口八丁で同一化を迫るような父性的象徴をメチャクチャに描くことからも伺えるし、彼が映画を撮るたびに日本にやってくることも日本の母性的社会に居心地の良さを感じているからなのかもしれない。
いずれにせよ父性と母性に代表されるような内と外の関係性においてはティム・バートンは著しくバランスを欠いているのは確かだが、母性への欲求こそが彼の作家性を形成していることは間違いない。そして本作のラストはまさに母性回帰ともいうべき形で幕を閉じる。
つまりとてもティム・バートンらしい作品だった。
個人的には近年のティム・バートンが描くファンタジーは「ジョニー・デップ」色が強すぎて食傷気味だったのだが、本作にはジョニー・デップもヘレナ・ボナム=カーターも出演しておらず、おかげで既存の色味がなく、ティム・バートンの「奇妙」さに集中することができた。『シザーハンズ』や『ビートルジュース』で描かれる世界の幸福さに共感できる人はお見逃しなく。
子供の頃の夢を追い続けるためにはいくつになっても母性の保護を必要とする、という意味では案外危険なメッセージにもなり得る作品なのかもしれないが、とにかく楽しい映画だったことは間違いない。
『ミス・ペレグリンと奇妙なこどもたち』:
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