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ロブ・ゾンビ監督作ホラー『31』レビュー

メタル・ミュージシャンとしても有名で、映画監督としては『マーダー・ライド・ショー』、『デビルズ・リジェクト マーダー・ライド・ショー2』などを送り出してきたロブ・ゾンビの最新ホラー『31』のレビューです。70年代的に倒錯する恐怖の館を舞台とした、恐怖と耽美で彩られた野蛮で自由なる宴のはじまり。

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『31』

日本公開2016年10月22日/ホラー/103分

監督:ロブ・ゾンビ

脚本:ロブ・ゾンビ

出演:シェリ・ムーン・ゾンビ、ジェフ・ダニエル・フィリップス、ローレンス・ヒルトンー=ジェイコブ、メグ・フォスター、ケビン・ジャクソン

レビュー

ハロウィーンを目前にした10月はじめにYahooニュースで『全米に広がるピエロ騒動に政府も介入 「ピエロ恐怖症」との指摘も』という記事が掲載された。ハロウィーンを前に全米各地で不気味なピエロが出現する事案が続けざまに発生、なかには武器をもって車を乗り回すピエロや子供を森のなかに誘い込もうとするピエロなど警察沙汰になるケースにまで発展し、子供やその親を中心にヒステリーが広がっているという。

この記事のなかでは白塗りの道化師を「ピエロ」と表現されているが、正確には「クラウン」と呼ぶ方がいいだろう。ピエロとはクラウンの一種であり、道化師であるクラウンよりも滑稽で観客には馬鹿にされる存在とされ、そのせいで涙を流しているのがピエロ。ピエロはどこか悲しい。

スティーヴン・キングの『IT イット』のペニーワイズに見られるように、白塗りでいつも笑っているクラウンは、怖い。人間とは無意識のうちに表情から相手の感情や機嫌を察知してコミュニケーションを構築しようとするため、何を考えているのかわからないクラウンは、コミュニケーションを拒否する存在として恐怖の対象となる。この「コミュニケーションを拒否する」というクラウンの素養は、恐怖演出の構造と似ており、故に、ホラー映画にクラウンはよく登場するし、殺人鬼の多くは仮面をかぶったり、メイクするなどして表情を隠しているのだ。

ロブ・ゾンビ監督最新作『31』に登場する殺人鬼たちも顔にペイントを施している。映画の冒頭で殺人鬼グループのなかで切り札的な存在の「ドゥーム・ヘッド」が「俺はクラウンじゃねー」と宣言するものの、鮮血を口から垂れ流す白塗りの狂人はクラインにしか見えない。しかし奴らはピエロではないことは確かだ。涙なんか流さないし、悲しみだって背負っていない。悲しみなんかのために人殺しするわけじゃない。

奴らが残酷なゲームに参加し人殺しを喜々として行う理由とはセンチメンタルなものではなく、これまでロブ・ゾンビが『マーダー・ライド・ショー』やその続編の『デビルズ・リジェクト マーダー・ライド・ショー2』で描いてきたことと同じように、あくまで自由のためだ。

金持ちも、貧乏人も、サラリーマンも、無職も、男も、女も、白人も、黒人も、年寄りも、子供も、そして殺人鬼も、自由のために生きている。そんな当たり前の事実が通用しなくなっている現在だからこそ、自由のためには人を殺さなければならない。

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物語は1976年のハロウィーン前夜を舞台にしている。主人公グループ、つまりは惨劇に巻き込まれる男女5人は旅芸人で、みんなで一緒にボロボロのバンに乗りアメリカ 大陸をさすらっている。メンバーには黒人もいれば中年女性もいる。彼らは自由に生きている。

そんな彼らが突然、何者かに襲われ、仲間数人は無残にも殺され、生き残った5名は巨大な廃墟に監禁されることになる。そしてゲームに強制参加させられる。「31」というハロウィーン前夜恒例となったゲームは、とてもシンプルな体験型ゲームだ。「ザ・ヘッズ」と呼ばれるクラウンに見立てた殺人鬼たちと戦いながら12時間後にも「生きている」者だけが「自由」を得ることができる。そのためには自分を殺しにかかってくる殺人鬼を殺さなければならない。

生きるために殺せ。そして自由のために殺せ。それが「31」のルールだった。

自由に生きてきた旅芸人たちが、自由のために戦う。この矛盾に満ちた自由への渇望こそが、ロブ・ゾンビのテーマになっている。

『マーダー・ライド・ショー』同様に本作は70年代的なニューシネマが生んだ私生児と言える。『俺たちに明日はない』『ワイルド・バンチ』『バニシング・ポイント』では常に封建的な権力に対する反論として、現実の無力と矛盾が描かれている。アメリカン・ニューシネマの動機にはベトナム戦争が大きく関係していることは知られているが、正しい戦争だと信じ込まされてきた戦争がそうでなかったという事実を頑なに認めようとしない世間に対してのカウンター・パンチだった。

「我々は正義だから悪を成敗して構わない」

こういった二元論による単純な世界観に巣食う、偽善的で自省のかけらもみえない他者への認識に対して中指を突き立てたのがアメリカン・ニューシネマだった。

そしてロブ・ソンビは2003年の『マーダー・ライド・ショー』から一貫して、このニューシネマの図式を血みどろのホラー世界に引用することになる。もちろんそこにはポスト9.11の世界が、ベトナム戦争時と同じような二元論的な様相を強めたことが関係しているはずだ。9.11後アメリカは世界中に「正しいアメリカの仲間」か「正しいアメリカの敵」かの非常に危険な二元論での世界認識を迫り、問いそのものに含まれる暴力性を疑った者にも「敵=悪」というレッテルを貼り、世界を敵味方に分断した。

このアメリカの方法論の誤りは現在の混沌が証明しているが、最も情けないのはこのアメリカの分断作業に喜々として加わった国々だ。どことは言わないが、喜んでアメリカの仲間に立候補した国々とは、言い方を変えれば、進んで家畜となったことを意味している。家畜に自由はない。なぜなら自由のために戦うことを放棄することこそが家畜だから。

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『31』という殺人ゲームに強制参加させられる旅芸人は家畜ではない。彼らはゲームの主催者から強引に参加させられた者たちだが、自由を欲し殺しあうことを選んだ時点で彼らは、家畜ではない。また同じことは殺人集団「ザ・ヘッド」のメンバーにも言える。なぜ彼らが殺人鬼としてゲームを盛り上げる役目を担っているのかは本編を見ていただくとして、殺しの自由のために誰かを殺すという意味で彼らも自由のために戦っている。

人間が生きる理由とは自由以外に何もない。

インターネットを開けば血まみれの戦争写真が簡単に手に入る昨今では、このニューシネマ的なテーマを現代で再現しようとした場合、血まみれの館を舞台とする必要がある。実際に戦争は、誰かの手によって起こっている。「戦争とは地獄だ」というセリフからもわかるように、この世界では自分が家畜ではないと証明するためには、戦争か地獄かを勝ち抜く必要がある。

そしてロブ・ソンビは地獄を選ぶ。恐怖の館を舞台にした、強制的で理不尽で無慈悲な地獄とは、シリアやイラクやイエメンで起きている戦争と同じなのだ。

レビューの冒頭でクラウンは「コミュニケーションを拒否する」存在と述べたが、その理由とは、この世界でのコミュニケーションとは家畜になることを迫る脅迫だからに他ならない。「仲間か敵か」という二元的選択を迫る脅迫に対し、「俺は自分の自由のために戦う」という第三の選択肢を死守する覚悟こそが彼らをクラインに変える。映画の中盤、相手を殺すことに迷いのなくなった旅芸人たちも、誰かの返り血や自分の流した血によって化粧を施すのはその表れだろう。

クラウンとは善か悪かという選択を拒否した存在だとするのなら、ニュースにもなった「ピエロ恐怖症」とはそれだけ世界が二元化され家畜化していることの証左かもしれない。

生きることとは自由であること。そのためには人殺しさえも躊躇わない。それはもはや善悪の問題ではない。

この人間の根源的な生への欲求こそ『31』の主題だった。

70年代の信仰者であるロブ・ゾンビだけに、当時の映画からの引用は『マーダー・ライド・ショー』同様に多数あるのだろう。なかでもブライアン・デ・パルマの『ファントム・オブ・パラダイス』を彷彿とさせる救いのなさや、決定的なシーンで多用されるスライドイン・アウトのトランジション、阿鼻叫喚の殺し合い、そしてサウンドトラックなど、出来栄えに文句はない。

人間とは、そして少なくともこの世界とは、善悪というたった二種類のフィルターで綺麗に分けられるほど単純でもなければ、バカでもない。故に、善悪のちょうど間で、そのどちらにも属することを拒否するような出来事だって存在する。

そしてこの『31』もそんな映画だった。

正しいか間違いか。そんな判断基準は捨ててしまえ。それよりもっと人間として根源的な問いについて考えろ。

なぜ死ぬのが怖い? 何がそれほどまで死を怖がらせる?

ロブ・ゾンビの答えははっきりしている。自分であるための自由を失いたくないからだ。

『31』:

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Summary
Review Date
Reviewed Item
31
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