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メリル・ストリープ主演『マダム・フローレンス! 夢見るふたり』レビュー

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メリル・ストリープが、実在した音痴のソプラノ歌手フローレンス・フォスター・ジェンキンスを演じた『マダム・フローレンス! 夢見るふたり』のレビューです。1944年、カーネギーホールで行われ、今なお語り継がれるフローレンスの公演を題材に描いた伝記ドラマ。一体誰が彼女の「好き」を笑えるだろか?

『マダム・フローレンス! 夢見るふたり』

日本公開2016年12月1日/ドラマ/111分

監督:スティーブン・フリアーズ

脚本:ニコラス・マーティン

出演:メリル・ストリープ、ヒュー・グラント、サイモン・ヘルバーグ、レベッカ・ファーガソン

レビュー

ある国におしゃれな王様がいました。

ある日、王様は馬鹿には見えない特別な布で作られたという服を買いました。

その服を着た王様はパレードを開催し国民にお披露目しましたが、実はその「馬鹿には見えない」という服は、王様にも家来には国民にも見えませんでした。でも誰も自分が馬鹿だとは思われたくないので、見えている振りをして王様を褒め称えました。

誰にも見えない服を着た王様と、見えないのに見えている振りをする国民たちで大騒ぎとなっている沿道で、一人の子供が「王様は裸だ!裸で外に出るなんてなんて馬鹿なんだ!」と叫びました。するとこれまで見えた振りをしていた国民たちも我に帰り、皆が「王様は馬鹿だ」と叫ぶ中、裸の王様はパレードを続けました。

というお話はアンデルセンの『裸の王様』で、権威の傘の下で真実さえも歪められていく愚かさを描いた寓話。

この手のアネクドートは古今東西に転がっており、それこそ「馬鹿」の語源ともなったと言われる史記の一説も同じような話だ。

そしてメリル・ストリープが音痴なソプラノ歌手を演じた『マダム・フローレンス! 夢見るふたり』も、話の類型としては「裸の王様」の亜種と言えるかもしれないが、こちらは教訓のために作られた逸話とは違い、実在した人物を描いている。

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(C)2016 Pathe Productions Limited. All Rights Reserved

裸の王様とは違った音痴の女王様

主人公はマダム・フローレンス・フォスター・ジェンキンス。幼い頃から音楽家になる夢を抱き続けていたが、父親の反対や事故、そして病気のために一時は音楽の道を諦めるも、莫大な遺産を相続し自由を得ると再び音楽家になる道を歩み始める。

夫の献身のもとで一流の指揮者を先生に招き、オペラ歌手になるべくレッスンを繰り返す日々。しかし彼女には致命的な問題があった。彼女は音痴だったのだ。しかも自分が音痴であるということに気がついていなかった。

それでも彼女は莫大な資金でニューヨークの音楽会に多大な貢献を果たしていたため、周りの人々は彼女の音痴な歌声を褒め称えた。そして物語は彼女が音楽の殿堂カーネギーホールでリサイタルを開くという夢に向かって進み始めることで、思わぬ方向へと転がっていく。

あらすじだけを読めば本作は「裸の王様」ならぬ「音痴の女王様」から権威という化けの皮が剥がされるドタバタコメディ、のように思えるかもしれないし、きっと見方によってその通りなのだろう。圧倒的な財力を誇り、 使用人や夫だけでなくニューヨーク全体が彼女の機嫌を損ねないように先回りして息を切らせる姿は誰が演じても滑稽なものだ。

しかし本作は「裸の王様」と似たストーリーでありながらも、主題とする教訓は全く別のところに転がっている。

「裸の王様」はおしゃれが好きで、それに着目した詐欺師らが編み出した「馬鹿には見えない服」という嘘に自尊心を刺激された結果、王様こそが馬鹿になってしまうというストーリーだ。そして周囲の人間もまた「裸の王様」の縮小版でしかなく、自分が馬鹿に思われたくない、もしくは王様に嫌われたくないという自己愛から、詐欺師の嘘に間接的に加担するようになる。そしてこの嘘から始まったデタラメのなかで、唯一王様を頂点とする利害関係に類しなかった子供だけが事実を語ることが出来た。

そこから事実というのはいいことだけでなく、自分にとって都合の悪い事柄であっても受け止めるべきである、という教訓に繋がっていく。

一方で本作『マダム・フローレンス! 夢見るふたり』では、彼女が音痴であるという事実は皆がすでに知っていることとして描かれる。彼女の歌声を絶賛する指揮者も、彼女の夢の実現に奔走する夫も、そして新しく雇われたピアニストも、みんなが彼女が音痴であると知っていながら、それを彼女には伝えない。なぜならフローレンスの夢は歌手になってカーネギーホールでリサイタルを開くことだから。

彼女が音痴であるという事実は、その夢の価値とはまったく無関係だ。彼女が音痴であるという事実を本人に伝えたところで、夢の実現が近づく訳ではない。彼女の夢の実現を最優先にした場合、彼女が音痴という事実というのは足枷でしかないのだ。

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(C)2016 Pathe Productions Limited. All Rights Reserved

出来る出来ないではなく、とにかくやる

カート・ヴォネガットの小説『青ひげ』にこんな一説がある。

いまでは人間能力の各分野で、それぞれ十人余りのチャンピオンがいれば、この惑星ぜんたいの用がたりる。そこそこの才能の彼または彼女は、いわば自分の才能を瓶詰めにしておき、結婚式で酔っぱらったときなどに、コーヒー・テーブルの上でフレッド・アステアかジンジャー・ロジャース気取りのタップを踏むしかなくなった。このての人間はひとつの呼び名があった。そんな彼または彼女は“目立ちたがり屋”と呼ばれる。

テレビやラジオ、最近ではインターネットというメディアが発達したことで、世界にはごく一部の飛び抜けた天才だけがいれば事足りるような環境が出来上がってしまった。地元で歌の上手いと評判の女の子も、アデルやホイットニー・ヒューストンと比較されればただの「目立ちたがり屋」と揶揄されることになる。グローバリズムの弊害とは経済だけの問題ではない。「世界はひとつ」という口当たりのいいスローガンの裏には、純粋な「好き」という感情が、笑いの種になってしまうという残酷な現実も含まれる。

「好き」という感情に純粋に行動し、まだ初心者だからという理由で下手くそな歌や絵をネット上に公開してしまったために、世界中から笑い者にされてしまうという残酷な現実は、一体どれほどの純粋な「好き」を殺してきただろう。ピカソもベートベンもマイケル・ジョーダンもスティーブン・スピルバーグも、みんな生まれながらにして天才だったわけではない。どんな天才も「好き」からはじめて、失敗や下手くそを経験して人々を感動させるような天才になったはずだ。

しかし誰もピカソの下手を笑わないし、スピルバーグのアマチュア作品を馬鹿にしたりしない。なぜならすでに彼らが天才であることを知っているから。

年老いても子どものような好奇心で夢と向き合う女性の下手くそな歌は笑っても、天才の下手や失敗には拍手を贈るという現実。

この現実の方が「裸」ではないだろうか。

YouTubeや掲示板で「好き」に忠実だったが故に馬鹿にされコケにされた彼らが、将来のピカソやアデルになったかもしれない可能性を一体誰が否定できるだろう。

「好き」に純粋に生き、夢に本気で挑み続ける人は決して「裸の王様」ではなく、ただ下手という理由だけで彼らを笑いのタネに変えてしまうような連中こそが、王様にもなれない「裸の小市民」なのだ。

この映画はおそらくは感動ドラマとして紹介されるだろうが、ただ「笑って」感動しました、という感想では掬いきれない毒がある。

調子外れの歌を一心不乱に歌うフローレンスは確かに滑稽だ。彼女が調子外れの歌声を聴いた時、思わずくすりと笑ってしまう。女王様に翻弄される人々のドタバタもコメディでしかない。そして権威に守られた彼女は確かに「裸の女王様」だったのかもしれない。しかし重要なことはそこにはない。

とにかく彼女は「好き」に純粋だった。そして死ぬ間際まで、さらに上手くなろうと練習を続けた。彼女の歌声は笑えても、彼女の生き方や純粋さとは決して笑えるものではない。彼女は自分の「好き」に忠実に、ただ歌っただけだ。それはすべての天才たちが通った道で、誰かに否定されるような謂れはどこにもない。

本作の毒とは観客に対し、自分はどうだろうか、という問いを物語の最後に抱かせることだ。

彼女を「音痴の女王様」と笑うことで、自分もまたどこか国の「裸の小市民」になっていないだろうか。劇中で彼女の下手くそな歌を笑うことで憂さ晴らしをする酔っ払いのようになっていないだろうか。

フローレンス・フォスター・ジェンキンスのような純粋な生き方こそが、自分の本当の姿を写す鏡なのかもしれない。

『マダム・フローレンス! 夢見るふたり』:

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マダム・フローレンス! 夢見るふたり
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