『母の身終い』のステファヌ・ブリゼ監督と主演バンサン・ランドンが再びタッグを組んだ『ティエリー・トグルドーの憂鬱』のレビューです。本作でバンサン・ランドンが2015年カンヌ国際映画祭の男優賞を受賞。社会の残酷さを冷徹に描いた社会派ドラマ。
『ティエリー・トグルドーの憂鬱』
日本公開2016年8月27日/ドラマ/93分
監督:ステファヌ・ブリゼ
脚本:ステファヌ・ブリゼ、オリビエ・ゴルス
出演:バンサン・ランドン、カリーヌ・ドゥ・ミルベック、イブ・オリィ、グザビエ・マシュー
レビュー
主人公ティエリー・トグルドーは社会に幻滅している。
長い間勤めてきた会社をリストラされ、職業安定所で紹介された研修を受けて資格を取っても、現場経験のない彼はどの会社からも雇用されることはない。職に就けないとわかっている研修を勧める職員に苛立ちを募らせながらも、彼はどうしても仕事を見つけなければならない。ローンの支払いはあと数年で終わり、今ここで家を売りに出せば、これまでの苦労が水の泡となる。そして彼には障害を持つ一人息子がいた。
どれだけ社会に幻滅しようとも、彼は絶望するわけにはいかなかった。そしてやっと職に就くことができた。それはスーパーマーケットの監視員、つまり万引きGメンなのだが、彼は万引き犯だけでなく、レジ打ちの同僚の行動も監視カメラでチェックする必要があった。サービスする相手の客や、一緒に働く同僚に疑いの目を向けることを求められる仕事に就いたティエリーは、人間らしくあろうとすればするほどに、居場所を失っていく。
主人公ティエリー・トグルドーを演じたヴァンサン・ランドンがカンヌ映画祭とセザール賞で主演男優賞をW受賞した本作『ティエリー・トグルドーの憂鬱』はとても逆説的な映画だった。ドキュメンタリーのようにカメラはほとんど動かずひたすら登場人物たちの言動を写していく一方で、映画に必要な物語の核がなかなか見えてこない。特に前半はリストラされた中年男性の苛立ちの断片がクローズアップされるだけだ。
職業安定所職員の事務的な扱いに苛立ちを募らせ、リストラされた元同僚は会社を訴えようとするが仕事探しに疲れ切ったティエリーにはそこまでの余裕はなかった。そして銀行からの借り入れも厳しい状況で、所有していたトレーラーハウスも足元を見られて適正価格では買い手が見つからない。徐々にティエリーを追い詰めていく社会の現実の厳しい部分だけをあえて抽出したシーンが続いていく。
そんなティエリーには妻と一人息子がいる。妻はリストラされた夫のことを攻め立てたりしない。そもそも夫がリストラされたことなど大した問題ではないというように夫に付き添っている。そして一人息子は障害を抱えている。ティエリーにとってこの家族の存在こそが未来の不安の根源であると同時に生きる希望でもある。
ひたすら続く陰鬱な出来事に反して、ティエリーの生きる目的がさりげなく配置されており、彼の日常の行動を通して彼自身の絶対に譲れない生き方の条件が浮かび上がってくる。
ティエリーがスーパーマーケットの監視員として職を得たところから物語のテーマが徐々に浮かび上がってくる。そしてそのテーマとはティエリー本人の人生におけるルールと同義となっている。ティエリー・トグルドーというひとりの人間である以上、これだけはやりたくない。この一線だけは超えてはいけない。たとえ家族のためだろうが何だろうが、絶対に譲れないもの。その哲学はやがてひとりの中年男性の悩みという小さな領域を超えて、「人間らしさ」という普遍性を帯びるようになる。
本作の原題を直訳すると「市場の法」となり、ティエリーがスーパーの監視人になるという文脈を織り交ぜれば「(スーパー)マーケットの規則」となる。本作を見れば、このタイトルは「市場の残酷さ」を描きつつ「スーパーマーケット的業務規則」の非人間的な側面を描いていることがわかる。ティエリーが自分が人間である以上何を犠牲にしても超えたくなかった一線こそが「(スーパー)マーケットの規則」なのだ。
スーパーの監視員となったティエリーは客の万引き行為だけでなく、同僚のレジ打ち店員の不正も告発せざるを得なくなる。彼らは犯罪者かもしれない。「市場の法」を破り、「スーパーマーケットの規則」を破った人たちだ。しかし彼らは持たざるものたちだった。誰かを傷つけたり、迷惑をかけるつもりで、その規則を破ったのではない。そうせざるを得ない現実があったのだ。失業を経験し社会に幻滅したティエリーにはそのことが痛いほどわかる。にも関わらず彼はそんな持たざるものたちを追い詰めなければならない。それが彼の仕事だった。家族を養うために、持たざるものを追い詰めなければならない。
この痛々しい逆説とは、残念ながら、現実でもある。情けのない現実を前にした時、人はどのような行動をとるのか。
現実とはハンマーのようだ。現実というハンマーは容赦なくティエリーを打ちのめす。その度に彼の大切なものは壊れていき、もっと大切なものを守るために、その次に大切なものたちを犠牲にしなければならない。現実とはまさにそうやって人々を追い詰めていく。
しかしもう犠牲にできるもの自分自身の魂だけになってしまった時、人はどういう行動を取るのだろうか?
その魂さえも差し出し精神的にも奴隷となるのか、それとも全てを失う覚悟で人間らしさを守るのか?
映画の最後、人生に幻滅した男が、絶望的な現実を前にしてひとつの決断を下す。それはとても小さな決断かもしれない。しかし彼は今いる絶望から抜け出るために、また別の絶望へと一歩を踏み出す。
それは絶望で満ちた社会にあっても自分自身には絶望しないという大きな決意の表れでもあった。
『ティエリー・トグルドーの憂鬱』:
このレビューもチェック!
▶︎音楽ドキュメンタリー『ソング・オブ・ラホール』レビュー
▶︎ニコラス・ケイジ主演『ダーティー・コップ』レビュー
▶︎映画『神様の思し召し』レビュー
[ad#ad-pc]
コメント