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松山ケンイチ主演『聖の青春(さとしのせいしゅん)』レビュー

難病と闘いながらも将棋に人生を賭けた棋士・村山聖(さとし)の生涯を描いた大崎善生によるノンフィクション小説を松山ケンイチ主演で映画化した『聖の青春』のレビューです。東の羽生、西の村山と呼ばれ将来を嘱望されつつ29歳という若さでこの世を去った不出世の天才棋士の将棋に賭けた情熱と青春。原作ファン納得の作品。

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(C)2016「聖の青春」製作委員会

『聖の青春(さとしのせいしゅん)』

日本公開2016年11月19日/伝記ドラマ/124分

監督:森義隆

原作:大崎善生『 聖の青春』

脚本:向井康介

出演:松山ケンイチ、東出昌大、染谷翔太、安田顕、柄本時生、リリー・フランキー

レビュー

『パイロットフィッシュ』などの恋愛小説でも有名な大崎善生の原作『聖の青春』は、大崎自身が「将棋世界」編集者だったという経験を活かして執筆された私ノンフィクションだ。つまり著者の大崎も物語内に登場する。その点では沢木耕太郎の『一瞬の夏』を彷彿とさせるのだが、沢木ほど物語に直接関与するわけではなく、村山聖という不出世の棋士を編集者として見つめるその距離感が温かく、将棋への彼自身の愛情と合わさって、読者もまた村山聖を含めた将棋世界に愛着を感じるようになる。

原作を何度も読み返したことがあり、思い入れも強い作品だけにどれだけフェアに本作を鑑賞できたかは自分でもよくわからない。ラストが死で締めくくられる作品としては定型的な手堅さが目立ったのも事実だし、数あるエピソードを上手くまとめ切れていたとも言い難い。それでも松山ケンイチ演じる村山聖のひたむきな青春にはやはり胸が熱くなった。

原作同様、村山聖という棋士だけでなく、将棋界と、彼と戦い時に酒を酌み交わし時に語らい会った棋士たちへの愛着が作品の下地に流れていることがよくわかった。

リングで散った村上聖

村山は文字通り、将棋に生きて将棋に死んだ。

プロの棋士にもなると一局で2キロほど体重が減ってしまうという。対局中、脳をフル回転させることで常人では想像できないほどのカロリーが無限の可能性を巡る思考に費やされる。そして一手ごとに迫ってくる制限時間。こういった要素が将棋やチェスを盤上の格闘技と呼ぶ所以でもあるのだが、村山聖にとってはその表現はもはや比喩でさえなく、将棋とは本当の格闘技だったと言えるのかもしれない。

幼少の頃に腎臓の難病「ネフローゼ症候群」を発病した村上は、入院中に父から教わった将棋に没頭し、メキメキと頭角を現わすようになる。そして将棋の最高栄誉である「名人」になるという夢を抱き、中学に入るとプロ棋士になることを本格的に目指し、プロ棋士の登竜門である奨励会員となると森信雄棋士の弟子となり大阪に単身でやってくる。

やがて羽生善治を筆頭とする黄金世代にあっても異例のスピードでプロデビューし、「東の羽生、西の村山」と称されるほどに将来を嘱望される棋士となった。

一方で病魔は休みなく彼の体を蝕んでいく。それに争うように酒や麻雀という余興にも熱心だった村山は、「打倒、羽生善治」という目標のもとで上京、名人を狙えるA級8段まで上り詰め、羽生や谷川らと死闘を繰り広げるも、その体は限界に達しようとしていた。

そして村山は棋士として最強クラスのAランクに籍を置いたまま、29歳で亡くなった。矢吹ジョーがリングで真っ白になったように、村山も盤上で燃え尽きた。

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(C)2016「聖の青春」製作委員会

天才たちにとっての普通

村山聖の魅力とは将棋の天才でありながら、その才能の彼方に「普通」の夢を描いていたことだろう。天才・羽生善治が今なお、その天才性をもってして我々の畏敬を集めるのに対し、村山の独特のパーソナリティは「普通に憧れた天才」としてファンの心を掴んでいる。

少女漫画を愛読し、身の回りのことはてんでダメ。狭い部屋のなかから将棋を引き算すれば、残るのは漫画雑誌と空っぽのカップラーメン。それでも時折、高熱を出してひとりでは生活できないものだから、将棋の師匠である森信雄は将棋そっちのけで彼の世話を焼かなければならない。

将棋の師匠が弟子の身の回りの面倒を見る。

一般的には逆であるはずの屈折したこの関係が、それでも師弟の強い絆として成立してしまうことこそ、将棋の魅力を凝縮していると言える。とにかく「普通」では生きていけない世界。81マスの小世界に起こりうる森羅万象の可能性をたったひとつの頭脳で読み解こうとするプロの棋士たちとは、無限の世界でたったひとつの可能性を選んで生きる我々とは、そもそもの土台が違うのかもしれない。神童が当たり前、天才がそこらじゅうにいる世界で、村山聖もまた常識では理解できないような言動を時折見せた。

その極みが、彼と病気の関係だろう。常人では立っているのがやっとの状況でも、彼は盤に向かい相手と格闘する。それは殴り合いこそしないものの、命をすり減らすという意味では全くの戦いだった。

そしてプロとして本格的に名人が狙えるA級八段になった後、進行性のぼうこう癌が発覚。普通なら1日でも早い外科手術の望む状況でも、村山は「麻酔を打てば頭が弱くなる」と言って手術に難色を示す。そして周りの説得でなんとか手術を受けさせても、その後の抗癌剤・放射線治療については前述の理由で将棋に支障が出るとして拒み続けた。

この普通ではあり得ないような将棋への執念と、普通ではあり得ないような生への軽視も、プロ棋士にとっては普通のことだったのかもしれない。

劇中、村山の母や看護師が、術後まだ体力が乏しい状態でも基盤に向かおうとする村上を止めようとするのだが、彼の同僚でもある棋士たちはどこか他人事のような冷静さで村山を見つめていたのが印象的だった。師匠の森までもは「それで死んだらそこまで」と諦観する。

このやりとりからもわかるように我々の常識から導き出される「普通」とは、棋士たちにとっての「最善手」ではない。村山が「死んでも勝ちたい」というとき、それは本当に勝つ事が死よりも価値があると信じているということなのだ。そして死んでも戦いに挑むことこそ、彼にとっての最善手だった。

天才たちが集まる棋士の世界にあって、彼の姿勢は決して異常ではなかったはずだ。

それでも「普通」に憧れて

本作は原作の象徴的なエピソードをグッと凝縮して2時間の物語に収めているため、映画としてうまく拾い切れていないエピソードもある。映画では東出昌大演じる終生のライバル羽生善治との対比を中心に据え、そこから村山の将棋への情熱を紡ごうとするため、原作のコアであり、そして今なお多くのファンから愛される所以でもある村山の「普通」への憧れは、いくつかのセリフと短いシーンのなかで最小限にしか描かれない。

インパクトのある出来事から優先的に描いていくというスタイルの本作は、そのため伝記映画として手堅いという印象から抜け切る事ができていない。いっそのこと村山の「普通」への憧れをカットして羽生を通しての彼の将棋への情熱にスポットを当てた方が、この映画で初めて村山聖という男を知る観客には良かったのかもしれない。しかしそれでは本作の主人公が村山聖である必要もなくなる。

村山の夢とは名人になることだったが、それには続きがあって名人となって将棋を辞めた後、素敵な恋をして結婚することが彼のもうひとつの夢だった。

病気がちで外の世界をほとんど知ることなく将棋に打ち込んでいた彼にとって、普通の恋をして普通の家庭を持つこととは、勝手知ったる将棋界の頂点を極めることよりも困難なことだった。そのことを彼は誰よりも理解していた。

少女漫画を愛読することで彼は将棋の先にある本当の夢を育んでいた。漫画のなかで描かれる「普通」をデフォルメした世界とは、彼にとっての純粋な夢でもあった。そしてそんな「普通」への憧れと将棋への情熱とは、切っても切れない関係だったのだろう。

病気になったからこそ知った将棋の奥深さ。その一方で病気は彼から普通の生活を奪った。しかし見方を変えれば病気によって「普通」を奪われたからこそ彼は「天才」になれ、ごく一部の人間にだけしか到達できない将棋の深淵を覗くことが許された。羽生が将棋に没頭することで我を失うのではないという恐れを抱くことと同じように、村山は将棋を通して「普通」ではいられなくなったのだ。

しかし多くの生まれながらの天才とは違い、病気という悪魔によってその力を与えられた村山は、本来自分が経験できたはずの「普通」を夢見続ける。

劇中の印象的なシーンで村山は酒を飲みながら、ある棋士を前にしてこう呟く。「一度でいいから女を抱きたい」と。

この何気ない一言が村山が背負った悲しみのすべてを物語っている。このセリフが出てくるシーンそのものにも唐突感が否めない。本来は誰にも見せずに閉じ込めていた想いが不意に溢れるようにして語られるべきセリフだった。それでもこの一言だけは絶対に省くことができないという制作側の判断は、村山聖という人を深く知れば知るほどに正しいと頷けるはずだ。

きっと村山も望めば女を抱くことはできただろう。 プロ棋士としての賞金もあったし、彼の周りには遊びなれた棋士友達も先輩棋士もいた。それでも彼は普通の恋の延長として女を抱きたいと願った。例え叶わぬ夢だとしても妥協だけはできなかった。ぼうこう癌を患い手術によって睾丸を摘出し、子供を産めなくなった彼が軽口のように「これでアダルトビデオも必要ないです」と笑うシーンでは、前述のセリフが伏線となり胸が激しく痛んだ。

ひとつの夢が終わり、それでも村山は将棋の戦いに向かっていく。

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(C)2016「聖の青春」製作委員会

青春だけを生きた村山

原作のある映画の場合、セオリーとしては予習はせずに映画から見た方が楽しめるのだろうが、本作に限っては原作を先に読むことを勧めたい。

繰り返しとなるが一本の映画としては、象徴的なエピソードが乱立し、物語のテーマと十分に有機的に絡み合っているとは言い難い。しかし原作を読んでいれば例え唐突感があったとしても、どうしてもそれらを映画内に盛り込みたいという制作サイドの想いも理解できるし、補填にもなる。

柄本時生演じる変なセーターを着た棋士や、村山にアロハシャツを買い与える先輩棋士の人柄や関係とは、村山の人となりを知る上で重要なものとなっているし、原作を読んでいれば何気ない彼らの仕草ひとつにも楽しめる。将棋の基本や、なぜ染谷翔太演じる弟弟子が鼻血を流してまで対局に挑むのかも理解できる。

そしてスクリーンに映り込む村山と所縁のある棋士たち。今では将棋界有数の所帯を抱える森一門最初の弟子が村山ということもあり、NHKでもよく見かける現役棋士たちの顔もチラホラ。立会人として原作者の顔もあったように思えたが気のせいか。

今、将棋界はコンピュータの猛威とカンニング疑惑というネガティブば話題で持ちきりだが、かつてその青春のすべてを将棋にかけた棋士がいたことをこの映画は伝えている。

結果として将棋によって命をすり減らした村山聖。しかし夭逝したロックミュージシャンの半生がその音楽を超えて眩いばかりの魅力を獲得するのと同じように、村山の無念の人生にも同様の作用が働いていることは間違いない。

我々は明日に死ぬとは思いもせずに今を生きている。一方で夭逝した多くの若者たちは、明日はないものとして今日を生きていた。夭逝者が放つ独特な魅力とは、ただ彼らが無念にも若くして死んでしまったからではなく、いつ死んでもいいように完璧な今を生きたからではないだろうか。言い換えれば青春のなかだけを生きて、青春のなかで死んだのだ。

とっくに村山が死んだ年齢を超えてしまった僕にとって、青春だけを生きることを許された村山を羨ましくさえ思ってしまう。

『聖の青春(さとしのせいしゅん)』:

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聖の青春(さとしのせいしゅん)
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