『はじまりのうた』『ONCE ダブリンの街角で』のジョン・カーニー監督の半自伝的作品『シング・ストリート 未来へのうた』のレビューです。年上のクールな女の子の気を惹くためにバンドを結成した少年の恋と友情と反抗と音楽を、80年代のダブリンを舞台に描く絶品の青春ドラマ。
『シング・ストリート 未来へのうた』
全米公開2016年4月15日/日本公開2016年7 月9日/青春ドラマ/105分
監督:ジョン・カーニー
脚本:ジョン・カーニー
出演:フェルディア・ウォルシュ=ピーロ、ルーシー・ボーイントン、マリア・ドイル・ケネディ、エイダン・ギレン、ジャック・レイナー
レビュー
80年代後半、世界中の人々は二種類に分けられた。それは『バック・トゥ・ザ・フューチャー』に夢中になった人と、そうでない人だ。
もちろんこの区分はあまりに乱暴だが、その公開翌年にレーガン大統領が一般教書演説で『バック・トゥ・ザ・フューチャー』から引用し「我々がこれから行こうとする場所に、道は必要ない」と述べたように、『バック・トゥ・ザ・フューチャー』に夢中になった人は、例外なく、自分の未来は自分の意思で変えてやるという信念を抱いたはず。誰かがご丁寧に作った道なんか必要ない。自分で自分の道を進んでやる。
『シング・ストリート 未来へのうた』の主人公コナーはまさに『バック・トゥ・ザ・フューチャー』に夢中になった少年だった。不況のどん底にあえぐ80年代のアイルランド ・ダブリンで、母親は浮気し父親は失業するという複雑な家庭環境のなか、コナーは自分の未来を自分で切り開こうと必死に背伸びする。そしてヒルバレーに暮らすマーティ・マクフライがそうであるように、コナーもロックに夢中だった。
父親が失業したあおりでカトリック系の学校に転入したコナー。そこはダブリンの閉塞感の縮図のように荒廃し、生徒達もラストレーションを抱え、けんかやいじめが横行していた。
そんなある日、学校の帰りに見かけた年上でモデルのラフィーナに一目惚れしたコナーは、口説くための口実として「俺のバンドのPVに出演しない?」と持ちかける。もちろん、そのバンドはまだない。こうしてコナーは彼女の気を惹くためにもバンドを結成することを決意。そしてその音楽で自分の未来を切り開こうとする。
意識して本作の粗を探せばきっとたくさん出てくるだろう。才能豊かなバンドのメンバーが都合よく見つかりすぎるとか、主人公コナーとラフィーナの恋愛感情の描写が不十分とか、、、。確かにジョン・カーニー監督の過去作『ONCE ダブリンの街角で』や『はじまりのうた』との比較では強引な展開と不完全なプロットが散見できたことも事実なのだが、そもそも完璧な青春が存在しないことと同じように、その不完全さがそのまま本作に登場する若者たちの、大人には決して理解できないし理解してほしいとも思わない不安定さの表れと見てとれば、欠点にさえならない。
物語上の問題点さえも作品全体の意図によって回収されるのは、恋愛映画のようで恋愛が描かれなかった『はじまりのうた』や、低予算ゆえの無名キャストが飾り気のない感動を生んだ『ONCE ダブリンの街角で』同様にジョン・カーニー作品の魅力でもある。
そしてジョン・カーニー作品のもうひとつの魅力とは脇役たちにもしっかりと血が通っていることだろう。主人公の引き立て役としての脇役ではなく、彼らのキャラクターが作品の重要なパーツになっており、本作ではバンドのギタリストのイーモン、そしてコナーの兄ブレンダンのキャラクターは主人公にも負けないほどに魅力的だ。
特にコナーにとって兄でもありロックの師匠であるブレンダンの姿には泣かされることになるだろう。長男として複雑な家庭環境の煽りをもろに受けたため大学をドロップアウトしそのまま引き篭もりとなってしまった彼の姿は、光り輝く『バック・トゥ・ザ・フューチャー』の未来を信じるコナーの前向きさと鮮やかな対比を作り出すも、両者を決して対立させない微妙な距離感は、終盤のラストシーンの前兆となっている。
優れた青春映画には欠かせない思春期の理解者であると同時に、彼もまた自分自身の不完全さを乗り越えようともがき苦しんでいる人物でもある。その思いの丈を弟のコナーにぶつけるシーンは、キャメロン・クロウ監督作『あの頃ペニー・レインと』で描かれたフィリップ・シーモア・ホフマン演じるレスター・バンクスの「Uncool/かっこ悪い」シーンにも劣らず、泣かせてくれる。もし『バック・トゥ・ザ・フューチャー』が85年ではなく80年に公開されていれば、ブレンダンこそが本作の主人公になっていたかもしれない。もちろんそんな仮定は無意味だということはわかるが、そう思わずにいられないほどブレンダンには感情移入してしまう。
ブレンダンがコナーに語る「ロックには周りからバカにされる覚悟が必要なんだ」という言葉は、ロック講義という枠を超えてコナーの人生訓になっていく。そしてその言葉にはバカにされる覚悟を持てなかったブレンダン自身の後悔も滲んでいる。
本作のラストはキャメロン・クロウ監督作の傑作青春映画『セイ・エニシング』を彷彿とさせる。冴えないキックボクサー志望の青年と優秀な生徒会長との無謀な恋を描いた『セイ・エニシング』のラストは周りの反対を押し切った二人が、新天地イギリスへ向けて飛行機で出発するところで幕が閉じる。不安と恐怖で震える手を握り合う二人の姿には単純なハッピーエンドではない、将来への不安も描かれていた。
そして『シング・ストリート 未来へのうた』のラストもそれに負けず印象的だった。常識的に言えば「無謀」であり「若気のいたり」であり「世間知らず」でもある。それでもそのラストにおもわず歓喜してしまうのは、いつの間にか僕たち観客もブレンダンと同じように、自らの青春の後悔をコナーに託してしまうからだ。
残念ながら僕らの世界には過去をやり直せるデロリアンはない。けれども映画を通してなら過去を追体験し、未来を修正することができる。コナー少年が『バック・トゥ・ザ・フューチャー』からそう学んだように、『シング・ストリート 未来へのうた』は僕らにも大切な何かを訴えかけてくる。それは言葉にすれば胡散臭い流行り文句にしかならないのかもしれないが、ブレンダンは劇中でこう表現している。
「セックス・ピストルズがどうやって演奏しようかなんて悩むと思うか?やり方なんてどうだっていいんだよ。スティーリー・ダンにでもなったつもりか!?」
つまり、ロックに生きろ、ということだと思う。
『シング・ストリート 未来へのうた』:
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